1945年5月29日に起きた「横浜大空襲」を後世に伝えるため、本紙は約6800人という市内最大規模の死傷者が出た神奈川区内で空襲に遭った、大関美代子さん(89)=泉町在住=にインタビューを実施した。大関さんは「戦争は全てを失うものだ」と警鐘を鳴らす。
市内の民間企業の社宅に住んでいた大関さん。幼いころは、日本と満州の国旗を手に戦果を祝う「旗行列」をするのが日課だった。「戦況が悪化するまでは、静かな暮らしぶりだった。アメリカと戦争すると聞いても驚かなかった。今思えば軍の刷り込み教育だったと思う」と当時を振り返る。
太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年、山手にあった女学校に入学した。「窓から海が見える高台にあって、帰りは元町に繰り出したものよ」と思い出を語る。本来は5年間で卒業する予定だったが、特措法により急きょ4年に。「私たちだけ卒業証書ではなく、修了証書だった」
青木橋で「敵来襲」
大関さんはその後、運輸省東京鉄道局に就職し、現在の県立湘南高校へ避難していた部署に勤務。横浜大空襲当日は、六角橋の耳鼻科へ寄ってから仕事場へ行く予定だった。「市電に乗っていたら、青木橋あたりで『警戒警報』が『空襲警報』に。ついには『敵来襲、退避せよ』の指示となってパニックになったが、とにかく職場を目指した」
防空壕に避難する人を横目に、命からがら横浜駅まで辿り着いた。そこから東海道線の臨時列車に飛び乗った。「少しでも遅れていたら危なかった」と九死に一生を得た。藤沢から横浜方面を見ると、昼なのに真っ黒。その光景が今でも脳裏に焼き付いている。
終戦間もなく横浜駅前へ。「あまりの変貌ぶりに言葉が出なかった。戦争は全てを失うものだと、何で気が付かなかったのだろう」。今後も当時の教訓を語り継いでいくつもりだという。
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