関東大震災 今に生きる吉沢町長の精神 流言に惑わされず朝鮮人保護 贈られた銀杯 孫が大切に保管
1923(大正12)年の関東大震災時に朝鮮人を保護した当時の吉沢保三田島町長に対し、朝鮮人団体から贈られた銀杯が孫の吉沢庸子さん宅(川崎区大島)で大切に保管されている。
銀杯は「川崎鮮人親友会」という団体が当時、田島町長だった吉沢保三氏に贈ったもの。
保三氏の孫にあたる吉沢庸子さんは8年前、横浜の開港資料館で開かれた橘樹郡に関する歴史展に資料を提供するため、自宅を探した際、銀杯を発見した。その後、自宅の建て替えにより、保管した場所が分からなくなっていたが、今年に入り、改めて自宅を整理し見つけ出した。かねてから銀杯に関心を示していた飯塚正良市議に連絡し、再び日の目を見ることとなった。
関東大震災では「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こしている」といった風説やデマが急速に広まり、関東一円で約6000人の朝鮮人が虐殺された。
震災当時、田島町には約300人の朝鮮人が在住していた。朝鮮人迫害の動きはこの地域でも起こったが、保三氏は栗田三男助役らとともに川崎区渡田2丁目の新田神社に180人を保護した。その後、学校校舎の倒壊材料を利用してバラック小屋5棟を建てて「収容保護」したと『川崎市史』では記述されている。
銀杯が納められた桐箱には、朝鮮人団体から授与に至る経緯が保三氏の字で簡潔に記されている。ただ、いつ、どのような場面で銀杯を受け取ったかといった事柄についての詳細は定かでない。川崎鮮人親友会もどのような組織であったかについても不明である。
吉沢庸子さんが生まれた時には保三氏は既に他界していた。姉の寺田茂乃さんも幼い時に町長が亡くなったため、大震災時にまつわるエピソードは伺うことは出来なかったが2人とも「統率力のある人だったのだろう」と口を揃える。
また、飯塚氏は「関東大震災から88年目にして町長が伝えたかったものが東日本大震災を通じ蘇ったように思う。流言に惑わされず、市民の生活を大事にする姿勢こそ私達が追い求めなければならない」と話す。今後、新田神社に事実を伝える碑文を残したいとも語った。
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4月26日