1月29日に誕生記念のイベントを開催する「中島三郎助と遊ぶ会」の会長 大内 透さん 浦上台在住 65歳
三郎助の「追っかけ」自認
○…中島三郎助という人物をご存知だろうか。日本人として初めて黒船に乗り込みアメリカ側と交渉した浦賀奉行所与力。しかし、歴史の表舞台に立つことは無かった―。その三郎助の足跡をたどり、浦賀の歴史を見直そうと活動するのが「遊ぶ会」。名称から誤解されることも多いというが、「遊ばせていただいているという想いなのです」と謙虚な姿勢で語る。モットーは、楽しく遊びながら学ぶこと。
○…三郎助との出会いは、今から約20年前。浦賀中のPTA会長を務め上げた頃、地域の中でその存在を知った。最初は「浦賀に立派な人がいたんだな」という感覚だったが、あるきっかけから急にのめりこむようになった。函館戦争(五稜郭の戦い)で、三郎助が最期まで戦った地は「中島町」と命名された。この地の人々は、徳川への忠義を貫き、散った「義士」の功績をたたえ後世に伝えている。現地の人々の想いを知るにつれ、尊敬の想いが膨らんできたという。
○…今では三郎助の「追っかけ」を自認。最期の地までの足跡をたどりたいと、6年前には浦賀から函館までの「追っかけ旅」をひとりで敢行した。さすがに三郎助と同じように航路で行くことはできなかったが、65日かけて陸路、車で北上。「(三郎助は)こんな景色を見たのかな」と偲びながらの旅だった。函館戦争での幕府側の戦死者を弔う慰霊碑「碧血碑(へっけつひ)」に到着すると、筆を手にした。鎮魂の想いを込めながら、その絵を描いた。
○…「近づけない存在です。しかし、意志は継いでいきたい」。三郎助は浦賀を愛し、浦賀で死ぬつもりだったのだろうと推察する。武士としての忠節を貫き通した生き様にどうすれば光が当たるのか。今後は浦賀に三郎助の銅像を建てることや、浦賀と函館の子どもたちが交流できる場の提供も考えている。男として惚れ込んだ中島三郎助。追っかけ活動はまだまだ続く。片意地張らず、のびのびと。
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