終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第20回は関東州(現中国・遼東半島)で国境守備隊に入隊した本多廣光さん(89)。
戦争が日に日に激しさを増していた1942(昭和17)年12月、在籍していた小田原商業学校(現・小田原総合ビジネス高)を2年で繰り上げ卒業し、関東州の大連汽船(株)に就職した。だが、船上での仕事に胸を踊らせ、意気揚々と向かった先で待っていたのは、「関東軍国境守備隊第一国境守備隊第四地区駒井大隊」への入隊だった。「当時は、国策で南方へと向かわされた。まさか国境部隊に入るなんて思わなかった」
大砲や機関銃などの兵器と約3カ月分の食糧を備えた地下にある基地で、ソ連軍からの攻撃に備える日々。次第に劣勢に立たされると、部隊は国境から約40Km離れた所に移動し、本多さんは挺身斬込隊に転隊した。「敵陣に直前まで匍匐(ほふく)し、突っ込むことが日本の戦法。慣れない馬にもたてがみにしがみついてまたがった」と振り返る。
45年8月8日、午前の訓練を終えると午後は束の間の休暇。食事の際には半合の酒も振る舞われた。しかし日付が変わった午前3時。ソ連軍の国境突破の知らせが入り、非常呼集がかかった。本多さんらは次の陣地となる牡丹江に向かう途中、ソ連の戦車から攻撃を受け、なす術なく山中へと逃げた。
野宿を余儀なくされ、食は1mにも伸びたネギと拳大のカタツムリ。鉄兜の中で茹でて手持ちの岩塩で味付けして食べると絶品だった。「目的地に到着する前に敵陣に追いつかれ、生きて帰れないと意を決したよ」と当時の恐怖心は今もなお脳裏に焼き付いている。
終戦を知ったのは8月15日から2週間ほど経った頃。「待ち構えていたソ連軍に武装解除を命じられ、貨車で捕虜収容所に送還された。その時、食べさせられた決して美味しいとはいえない黒パンの味は忘れない」。本多さんは自身の戦争体験を綴った「見捨てられた人々」(=写真)を2009年に出版。著書の中でも平和を願っている。
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