今年で終戦70年。人・もの・場所を介して、小田原に残る戦争の記憶を綴る。第21回は、地元新聞社の企画で7月25日(土)に生涯学習センターけやきで講演を行う城山の増田昭一さん(87)。
長崎に原爆が落とされたその日、中立条約を破棄し、ソ連(当時)が満州(今の中国)へ攻め入った。
増田さんは小田原中学(当時)を卒業後、満州のチャムス医科大学に進学。ソ連進攻時は休暇を利用し、牡丹江で家族との再会を楽しんでいた。国境に近い牡丹江は、ソ連の進攻で戦闘の最前線へと変わった。
職業軍人の父が部隊長として指揮する前線は、兵器廠(工場)だったため、倉庫が多く、軍人以外は大きな倉庫に集められた。そこへ「増田部隊長から、昭一君は”戦車攻撃”に加わるように、との命令です」の声。増田さんは急きょ戦線に加わることになる。実は、倉庫は爆破される予定だった。「ソ連参戦で敗北は確実。家族が捕虜になって苦しまないよう、『いっそ工場を爆破して(殺して)ほしい』と部下に頼まれ、止む無く父が了解したようです」。息子を戦線に加えたのは、「せめて軍人として」という父の苦肉の策だった。
”戦車攻撃”とは言え、リヤカーに爆弾を積んでの体当たりや戦車の通り道にたこつぼを掘り、爆弾を抱いて突っ込むなど、いわゆる肉弾戦。増田さんは前線への武器の補給にあたった。
8月14日。戦闘配置につく。朝靄がかかった稜線に、ぽつんと黒い影が一つ。ソ連の戦車だった。「靄が消えると50〜60台の戦車が見えた」。猛烈な戦車からの砲撃。兵士たちは戦車に突っ込む前に戦死した。
増田さんも砲弾の破片が右腕に被弾、自動小銃が頭をかすめ、気を失った。地元の人の助けで辛うじて生き延びた増田さん。兵器廠の爆破も避けられ、家族も命が助かった。しかし、待っていたのは、生き地獄のような収容所生活。日本に戻ってこられたのは、翌年末になってからだった。
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「あっという間の70年だった」。帰国後、教職に就いた増田さんは、収容所での孤児たちの様子を教壇から話し、退職後は多くの著書に書き記している。
25日の講演について「理解できるか解らないが、戦争を経験していない人全員に聞いてほしい」と話した。
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