終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第35回は、学徒動員で陸軍に入隊した木崎左一さん。
太平洋戦争の勃発から約2年が経った1943年10月1日。戦局の悪化により、政府はそれまで高校や大学の学生に認めていた徴兵猶予の措置を撤廃。これにより、多くの学生が学業の道半ばに戦地へ駆り出されることになった。
10月21日、冷たい雨が降りしきる明治神宮外苑競技場で実施された壮行会。出陣する約7万人の学徒のなかに、当時明治大学の2年生だった木崎さんもいた。
鉄砲を担ぎ、東京帝国大学(現東京大学)を先頭に、大学ごとに行進。東條英機元首相の前にさしかかると、「頭(かしら)、右」の合図であいさつした。「やってやるとか、死にたくないとか、そういうものじゃない。学生はペンを捨てて剣を持つ。若者は国のために戦争に行くことに、何も疑いはなかった」
その後、徴兵検査を受けて陸軍に入隊した。配属先は世田谷の野戦重砲兵第八連隊。いずれ戦争が終わったら就職に役立つかもしれないと運転免許を取得していたことで、戦車の操縦士に抜擢された。操縦席のスペースは一人入るのがやっと。エンジンの熱気で、夏は灼熱地獄だった。
木崎さんの役目は国内の防衛。アメリカ軍が九十九里浜から上陸してくるという予測をもとに、戦車や大砲を並べた放列を敷いて迎撃する作戦だった。だが、結果的に上陸地は沖縄。激しい地上戦が繰り広げられ、約20万人の死者・行方不明者を出した。「日本の情報はアメリカに筒抜けだった。もし本当に九十九里浜に上陸していたら、命はなかったかもしれない」
見た目こそ赤飯のようだが、冷めると喉を通らないほどまずいコーリャン(トウモロコシの一種)。具がなく表面に顔が映る味噌汁。連帯責任で上官に毎晩革のベルトで殴られ、ヘマをすれば凍った池に突き落とされる。苦しさのあまり自殺を図った者もいたほど、兵営生活は過酷だった。
祖国や家族のために、多くの若者が自らの命をかけた時代。戦争に良い思い出はないが、「自分の親や子どもを殺したというニュースが日常茶飯事。戦争はなくても、今の日本は平和と言えるのだろうか」と、寂しそうな顔をのぞかせた。
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