寛さんが誕生した1934年に父・友助さんが開業。80年たった今も当時と変わらぬ佇まいの中嶋湯には、戦中の混乱期でも変わらぬ人々の日常があった――。
開戦は、寛さんが芦子国民学校(現・芦子小学校)の2年生だった時。しばらくは生活ぶりに目立った変化はなく、敵機の来襲もなかった。むしろ怖かったのは、にわかに苛立ち始めた学校の先生の存在で、「女の子でも容赦なく往復ビンタされた。その恐怖は身体で覚えている」。だが、そんな先生たちも、若い人を中心に次第に戦争へと駆り出されていった。
一方、各家庭に風呂が普及していない時代とあって、銭湯のにぎわいは開戦後も相変わらず。だが、次第に戦争の色が濃くなり始めると、客の中には近所の寺院に疎開してきている児童の姿も見られるようになった。同世代の子どもたちに興味をもち、「幽霊の格好をして驚かしたりもしたけれど、親元を離れて暮らしていることが、かわいそうだと思った」。
兵隊が立てた電柱
兵隊たちも連日列をなしてやってくるようになった。子どもたちにとって兵隊は憧れの的。入浴前に脱衣場で車座になり、脱いだシャツのシラミを瓶に詰める姿を眺めていると、「これは夜のおかずだ。食べてみるか」とからかわれたこともあった。「皆、故郷を離れてきて、家族が恋しかったんじゃないかな」。そこには、任務から一時的に開放された兵隊たちの素顔があった。
燃料不足により、「湯水はおけ5杯まで」という入浴の心得も貼りだされた戦中。すると、兵隊の計らいで銭湯の脇には電柱が立ち、電気で湯を沸かせるように。また、日曜大工で作ったテーブルを寄贈されたこともあった。「上官がいない時を見計らって、母が兵隊に食べ物を与えていたみたい。皆、お腹をすかせていたからね。その感謝の気持ちだったのかな」。
街中に連日響く空襲警報のサイレン。食糧難による空腹。敵につかまれば耳に針金を通され、船から吊り下げられるという噂――。戦況の悪化で常に緊張感が漂っていた日々だった。それでも、濾過機がなく汚れがちな湯しか提供できなくなってもなお、訪れる老若男女が後を絶たなかったという。
終戦70年を迎える今年、小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る。第2回は戦前から営業を続ける銭湯「中嶋湯」(中町)の加藤寛さん(80)。
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