小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介して綴る。シリーズ16回目は、久野在住の山崎弘さん(83)。毎日板を担いで久野の山に出かけ、弾薬庫建設の手伝いなどに駆り出された。
芦子国民学校(現・芦子小学校)3年の時、太平洋戦争が開戦。真珠湾攻撃の知らせを家族全員でラジオの前で聴いた。翌日、登校すると担任の先生から非常時の心構えを聞かされ、「いよいよか」と決意を固めた。
教室の掲示板には、日本の飛行機が敵機を打ち落とす様子などが描かれた「戦争絵画」が貼り出され、戦闘意欲をかき立てた。「飛行機はかっこよくてこんな絵を描きたいなと思っていたけれど」と複雑な心境だったことを明かす。
6年生になると教室が本土決戦に備えた日本兵の宿舎に。校庭も瞬く間にさつまいも畑へと姿を変え、児童は皆で自宅から持ち寄った鍬で農作業。畑の端に机を並べ、軍人勅語を暗記し読み上げる日々を送った。「一億一心、必ず勝つと皆が前を向いていた」
高等科になると、学徒動員として小田原の海が一望できる久野の山へ弾薬庫建設のため駆り出された。「6人一組で休む暇なく板を担いで山へ。雨だと作業がなくなるので、心の中では雨が降ることを願っていた」と振り返る。現場では敵機の機銃掃射から身を守るための横穴を掘り、作業に徹した。「毎日が恐怖心との戦い。一生忘れられない思い出」と声を震わせた。
終戦間近の1945年8月、久野川で遊んでいた山崎さんらの頭上に「ゴゴゴゴゴゴ」と今までに聞いたことのない轟音をとどろかせて敵機が来襲。しかし、そこから投下されたのは爆弾ではなくビラ。拾い集めると、そこには「日本失墜」を伝える文章が記されていた。「もうだめなんだ」と仲間と共に涙を流した。
現在は小学3年時に担任の先生から褒められて以来のめり込んだ絵画に勤しむ。その実力は寺院の天井画を手がけるほどだ。「平和であるからこそ今でも絵が描ける。もちろんこの先も」。十人兄弟のうち4人が戦場へ赴き、大好きだった3番目の兄は硫黄島で戦死した悲しい記憶。山崎さんは平和であることの幸せをかみしめ、今日も筆を走らせる。
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