7月11日に開幕する第97回全国高校野球選手権神奈川大会で始球式を務める 稲荷 義郎さん 台町出身 85歳
白球(きぼう)追いかけた青春時代
○…第30回(1948年)大会で優勝し、戦後初の県代表として甲子園に出場した浅野高のキャッチャー。高校野球100年、戦後70年にあたる節目の大会での抜擢に、「冥土の土産だ」と照れ臭そうに微笑む。当時3年生、最初で最後の神奈川大会。田中進投手とのコンビネーションで開成高(当時)の打線を封じ、3対1で優勝を掴み取った。「本来ならば、始球式で田中とバッテリーを組めれば良かった。この歳になると、仲間はほぼ残っていないね」
○…青木小を卒業したのち浅野中へ進学するも、学徒動員として東神奈川の軍需工場で働く日々を送った。45年5月29日、焼夷弾の黒煙であたり一面暗闇と化した横浜大空襲。「炎から逃れようと、近くの運河へ飛び込んだ」と命からがら中区から台町の自宅へ戻ったが、生まれ育った家は跡形もなくなっていた。
○…終戦後、講堂以外が焼け野原となった学校で、「”何もないから野球でもしようか”と、自然と生徒たちが集まった」。グラウンドに刺さった焼夷弾を取り除き、新制高校13人が野球部として活動を再開。毎日夜遅くまで白球を追いかけ、日中の授業では居眠り。落第しかけるほどだったが、「(あの時代にやれることは)野球しかなかった」と懐かしむ。汽車に乗って片道8時間かけて臨んだ甲子園は初戦で涙をのんだが、皆があこがれる夢の舞台に立てたのは感激だった。
○…早稲田大ではボートに転向。ミットをオールに持ち替えた。現在は中高生などのボート指導にあたる傍ら、毎年母校を応援しに球場へ足を運ぶ。一度は始球式の依頼を断ったが、OB会の後押しがあり、母校のユニフォームも特注してくれた。「投球練習したら腰を痛めちゃって。当日は投げるので精一杯」と笑うが、先月母校を訪れた際には「一つでも二つでも、勝つことで喜びがあるはずだ」と後輩たちにエールを贈った。「(出場する高校球児には)全力を尽くしてほしい」
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