「技術以前の問題だった」。2009年7月、ブラジル・サンパウロ州の日系人が住む町で、少年野球チームのコーチに就任した。
キャッチボールで悪投した球を放置したままと思いきや、自転車に乗った子が外野に散った球を集める。汗、涙、感謝…野球への思いがたくさん詰まっているはずのグラウンドに、無残についたタイヤのあとを茫然と眺めるしかなかった。
相手は10代前半の子どもたちと、自分の親くらい歳の離れた監督、コーチ陣。数カ月後に控える全国大会に向け「夏の連戦で集中力を保つために、まずは体力」と、過去にないほどの厳しい練習を容赦なく課した。
辞書片手につたないポルトガル語でのコミュニケーションに四苦八苦しながら、町中から「あの先生はいらない」と非難を浴びる日々。一球の重み、道具の大切さ、支えてくれる人への感謝…日本流の基本姿勢を繰り返し説き、子どもたちの心に一歩ずつ迫っていった。
やがて、自己表現が苦手だった子たちの口から「野球がやりたい」という本音が聞かれるように。全国大会3位に輝くと、地元の非難は一転、賞賛に変わった。
WBCのブラジル代表コーチとして、1次ラウンドの地、福岡県に乗り込むのはそれから3年後のことだ。
原点は中学教員
指導者を志して日体大を卒業後、保健体育の非常勤教員として初赴任した市立中学校。「競技としてのスポーツしか知らない自分には、全くない考え方だった」。走り高跳びの授業で「あの子の次は嫌」と級友から避けられている女子生徒がいた。後で当事者に「自分が言われたらどうか」と諭したが、先輩教員の一言にハッとした。「その子の後に黒木が跳べばよかったのに。そうすれば皆の注意がお前に向くから」。視野を広げたい。海外への一歩を踏み切らせたあの言葉は、今も忘れない。
この春、地元横浜を拠点に新たな指導者の道を歩み出す。「ブラジルが世界で活躍できるように」と同国野球連盟の日本事務局員としても活動を続けていく。
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