2008年の南神奈川大会決勝、横浜創学館高校の甲子園行きを阻んだのは森田誠一監督=写真=の母校・横浜高校だった。「お前を甲子園に行かせてあげたいが、勝負ってのはそういうもんじゃないんだ」――三塁ベンチに歩み寄り、握手を求めて言った恩師の言葉が脳裏に焼きついている。
金沢中学から横浜へ。「1年からレギュラーとってやるって軽い気持ちが、練習を見て沈んだ」。愛甲猛選手率いる横浜が全国制覇した80年。猛々しい雰囲気に圧倒された。特に「雲の上の存在」だった渡辺監督。「ノックバットを持つと嫌だったね。打球が速くて、捕れないとしつこくて」と笑う。
チャンスが巡ってきた1年秋は、公式戦で代打に立つも三振。「一言声をかけられたのが『お前は二度と使わん』」。再び訪れた好機は学年が一つ上がってから。「ここでやらなきゃ。今思えばそれが指導だったんだ」。その夏には二塁手として甲子園の土を踏んでいる。
現役時代から恩恵を受けてきた。バットやボールが揃い、環境が整っていた当時。「選手を思った監督の努力があったのかな」。部員には現在、不自由なく野球ができるありがたみを説いている。「渡辺監督の名前を使って強いチームと練習試合を組んでもらったとかね」とバツが悪そうに笑う。知らず知らず影響され「似た指導をしてるなって思う時がある」。そうして監督就任時の91年以降、”無名校”を神奈川上位に食い込む強豪校へ生まれ変わらせた。
甲子園が見えてきた頃には、手の届かなかった母校も絶対に勝つべき相手に。「強い母校であってほしい、でも渡辺元智という大きい壁を乗り越えない限り甲子園はない」。縁あって就任した創学館は奇しくも横浜と同じ金沢区。切符は一枚しかない。「宿命ですね」。最近は互いを意識してか練習試合も減った。「森田のとこはあと一歩と言われる」と苦笑い。「あとはうちを倒すだけだぞ、でも負けねえぞって思っているのかも」
今の横浜を「打って守れるチームに切り替わった」と見ている。その進化こそが横浜の強さだという。「名監督っていうのは時代に合った指導ができるんだろうな」。かつての”打の創学館”も方向転換を始めた。「変わりつつあるねえ」。母校を越えるためにも、進化を目指す。
だが、残すチャンスは今夏限り。当たるとすれば08年と同じ、決勝だ。「花を持たせてあげたい。だけど監督の言葉を借りれば、勝負だから互いに厳しくね」
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