「丸出だめ夫」などの漫画で一世を風靡した森田拳次さん(76歳/富岡東)=写真上=は、70年前の終戦を満州で迎えた。現在は、同じ引揚者の漫画家を中心に結成した「私の八月十五日の会」で戦争体験を伝えている。戦後70年の今、何を思うのか。記憶をたどった。
「戦争は戦いが終わったから終わりじゃない。そこから」――。満州の奉天(現・瀋陽(しんよう))、6歳で迎えた1945年8月15日を鮮明に記憶している。ラジオから聞こえる玉音放送に泣き崩れる大人、不気味なほど静かな日本人街。事態を飲みこめないままその場を抜け出すと、一生忘れられない光景を見る。大通りは敗戦を喜ぶ中国人で溢れ、その中を進む馬車の荷台には拘束された数人の日本兵。鞭がしなる度、歓声があがった。「当時、日本兵はスーパーマンのような存在」。変わり果てた姿に、自分の身にも忍び寄る恐怖を感じた。
その日から立場は逆転した。集落では集められた日本兵が銃処刑に。女性は頭を丸め、墨で顔を黒く塗って男性のように暮らした。子どもは中国人に売られていった。「昨日一緒に遊んだ子が悲しい顔をして連れていかれる」。4つ下の弟にも話が持ちかけられた。「いつ襲ってくるかわからない。声をひそめて生活していた」
引き揚げが始まったのは翌年。シベリア送りから脱走した父と合流し、船が出る葫蘆島(ころとう)へ家族と貨車で向かった。「そこが第一関門」。山賊に停められる度、金品と女性が奪われ、数時間のところを一週間かけて進んだ。
船内で果てる命もあった。亡骸を海に沈め、2回旋回して汽笛が鳴る。51年前に越した富岡の自宅で正月、船の汽笛を聞くとあの日を思い出す。「ボーっという同じ音。どきっとする」
漫画で伝える
東京に戻っても、あの囚われた日本兵が忘れられなかった。「日本人で見たのは自分だけ。どうにか伝えたい」。そんな思いから、17歳で漫画家に。だが描いたのはギャグ漫画だった。しばらくすると赤塚不二夫さんなど、ギャグ漫画家には引揚者が多いことを知った。「身内を亡くした人も。皆何十年も喋らなかった」。赤塚さんの妹は帰国30分後に亡くなったという。「現実を受け入れて笑いとばしたそう。まさに『これでいいのだ』と」。彼らが描く笑いにはそんなルーツがある。「笑いは最大の武器という言葉があるが、それに似た感覚」
戦後50年の節目、赤塚さんやちばてつやさん、北見けんいちさんなど9人で「中国引き揚げ漫画家の会」を結成。引き揚げ経験を伝えるべく画集にまとめ、自身もやっとあの光景を絵に残すことができた=写真下。
03年には、終戦の記憶を残そうと「私の八月十五日の会」を立ち上げた。高倉健さんややなせたかしさん、山田洋次さんなど賛同者は100人以上。「8月15日、どこにいて何を思ったか」――各々の終戦体験を絵と文でたどる画集を発表した。翌年には、それをもとに巡回展を開始。10年後に中国でも実現した。「ヨーロッパや国連でも行いたい」と精力的だ。代表を務める傍ら講演活動なども行う。その功績が認められ、昨年は日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞。「幸い絵で残すことができる。これからも続けたい」と決意する。「戦後は一度味わえば十分」。二度と繰り返してはいけないと噛みしめる。
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