金沢区東朝比奈に住む南裕子さん(57)が、昨年出版した「幸せはわたしの中にそしてあなたの中に」(ぶどう社刊)。末期がんである南さんが、自閉症の息子を残していく素直な気持ちがつづられている。著書は反響を呼び、昨年10月にはNHKが紹介。全国各地の図書館にも置かれた。現実を受け止めながら、日々の幸せを感じて生きる南さんの今を取材した。
乳がんの宣告を受けたのは51歳の誕生日だった。そして真っ先に、自閉症の長男・隼人さん(現26歳)=写真右=を思った。
恐怖に飲み込まれまいと始めたのが「書く」こと。「何より隼人のことを書いておきたかった」。病院の待ち時間に、隼人さんとの日々をノートにつづる。文章は原稿用紙400枚分もあった。
「新聞紙にくるんで押入れにしまっていた」原稿を引っ張り出すことになったのが昨年7月。再発したがんはその前年の4月、テニスボールほどの大きさで腸骨に遠隔転移していた。51歳の日から読み漁ったがんに関する書物。知識が「余命いくばくか」を知らせる。「失敗しても良い。命があれば何でもできる」。出版社に原稿を送った。
「長生きしたいですよ、80歳の寿命まであと30年でいろんなことができる」。強い言葉と裏腹に、柔らかい笑顔を見せる。本を通して伝えたかったのは、悲しみではなく希望。家族で囲む食卓、家で過ごす時間―「死の直前まで幸せや希望はある。生きている限り皆一緒」
さらに問いかけるのが「命」の重み。「若い頃、障害者は家族にも大切にされてないと思っていた。そのしっぺ返しなのかも」と率直な気持ちを口にする。だが、隼人さんと向き合う中で考えは180度変わった。「こんなにも大切だということ。優秀な子の命だけが大切なんじゃないと教えてもらった」。がんも患い日々命を考える。「一人ひとり、命を大事に」。そう強く願う。
家族と歩む
「死が怖いなんて思うことないよ。俺が半分死んで入り口で待ってるから」―リンパ節の転移が見つかった2年前の夏、夫が言った言葉に支えられてきた。南さんは現在、3週間に一度の抗がん剤治療を続けている。温かい食事で迎える夫の優しさが嬉しい。「たった一人、主人だけは奇跡を信じている」とほほ笑む。
結婚式の日取りを早めた長女には「親孝行すればよかったなど思わないで」と伝えたばかり。長女も次男も自立し、家を出て暮らしている。「私のことは徐々に忘れてほしいくらい。人生を楽しんでほしい」。だが、ふと気づくと引き出しが次男の好きだった菓子でいっぱいになっている。
隼人さんは4年前からグループホームでの宿泊練習を始めた。昨年末につくったのが隼人さんの紹介資料。プロフィールや一人でできること、接し方の注意や予防接種の種類まで記してある。「私にできることは隼人を、社会に愛される子に育てること」。物ではなく、隼人さんの身になることを残すのが大事と気づいた。
東朝比奈・南さん自閉症の息子を残して
「生まなきゃよかった」―隼人さんが自閉症と分かるとそんな考えがよぎった。「本当にひどい母親だった」。思いが通じない日々、周囲からの視線、未来すら描けなかった。だが、保育園に迎えに行ったある日、ほかの園児と一緒に飾られた隼人さんの絵を目にする。カタツムリがにこにこ笑っている。「隼人は幸せを感じられるんだ」。子育ての主役は母親ではなく、子ども。本人が幸せなら良いではないか。「母になれた瞬間だった」。それからは隼人さんの目線で、毎日を楽しめるようになった。「カタツムリねと聞くと、カツムーリと返ってくる」。愛しくて仕方ない声が、今も耳の奥に蘇る。
「きちんと死ぬこと」
「教育ママだった」と笑う。幼い頃は計算や朗読などを叩き込んだ。家中のあらゆる長さを測り、液体の量を計測する。「少しずつできるようになるんです」
夫の助けも大きかった。「厳しい男の子育て」。隼人さんが公共の場でも静かでいられるのは、障害があるからと差別せずしつけをしたおかげだ。「親がいらなくなるのが子育ての最終目標。自分がいなくても生きていけるようにすること」。自立へ向けできることを一つ一つ増やしていった。一人での外出練習も始め、世界が少しずつ広がっている。
「優しくて気が利く良い子に育ってくれた」。親ばかと笑うが、だるそうにしていれば自ら洗濯物をたたみ、食器洗いを済ませるほど。自身の持病が薬で抑えられているせいか、薬の飲み忘れも見逃さない。「毎晩枕元にお茶を用意してくれる」。思いやりの芽は、着実に育まれてきたのだ。
逃れられない現実を前に、できるのは「きちんと死ぬこと」。その姿を子どもに見せること。治療が辛い日も投げやりな日も、その時まできちんと。日々の奥深いところに幸せを見つけながら。「その姿勢は隼人に学ぶことが多い。もともと、一日一日を新しい日として生きている子ですから」
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