戦後70年 幻の三菱パラオ造船所 50人超える犠牲者も
第二次世界大戦末期、激戦地パラオで造船所の建設工事が進められていた――。三菱重工横浜製作所(元三菱重工横浜造船所 通称/横船)で昨年、新たに建設工事責任者の手記2冊が発見された。以前に見つかっていた業務日報や電文などの資料と合わせ、当時の様子を振り返る。
日本から南に約3000Kmに位置するパラオは1920年から終戦の45年まで日本の委任統治領だった。戦時中に国が1万トン級のドックの建設を進め1943年6月から、横船に委託された。横船からは3回にわたり職員や行員ら計84人がパラオに派遣された。
手記はこの時の工事責任者、牧野長氏さんのもの。横浜製作所金沢工場(区内福浦)と本牧工場(中区)で社内文書の整理中に見つかったという。社内文書の下書きや日記のようなメモ書きが記されている。
牧野さんは44年3月にパラオに入るが、建設物資の手配のため一時帰国。その後、現地の戦況が悪化し、7月6日ついに工事は中止に。派遣員は制海権のない中、フィリピンへの脱出を試みる。「十一名パラオに於いて召集、軍務に服す」「六十八名動静不詳」「一名死亡」。牧野さんが赤字で書いたこの文書の日付は8月23日。資料をまとめた三菱日立パワーシステムズエンジニアリングの牧浦秀治社長は「きちっとした字の他の報告書と比べ、書きなぐったような筆跡。自分だけ日本に戻ったことの辛さが現れているのでは」と心中を推察する。日本に生還したのは84人中、わずか28人だったという。
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