横浜が焼け野原になった68年前の5月29日。当時15歳だった中村定治さん(83)は、勤務先の東神奈川の造船所で空襲に遭う。その当時の話しを聞いた。
晴天のその日、朝の6時ごろに一度、空襲警報が解除され、自宅があった西区浜松町から市電に乗り出勤。午前7時ごろに再度、警報が発令されたという。そして9時20分ごろ、米軍機による焼夷弾の投下が始まる。中村さんの職場には、漁船を改造した海軍の船が入っていたこともあり、艦載機による銃撃を受けたという。鉄板の下にもぐり込み、助かる。「弾丸をはじく音がすごかった」
焼夷弾を避けるため別の場所に移り、山積みの丸太の下へ。隙間から見上げた空は「きらきらと降り注ぐ焼夷弾の雨あられ。それはそれはきれいな光景だった」という。
火の勢いが増し「地は真っ赤、空は真っ黒になり夜かと思えるほど」。炎の勢いで上昇気流が発生し「まさに竜巻みたい」と、住宅の屋根など舞い上がって吹き飛ばされていたという。
爆撃がおさまったのは午前11時ごろ。山下方面は見渡す限り焼け野原で、各地で火災が発生している状況だったという。
勤めていた造船所は火の手を逃れたため、捕虜のアメリカ兵やイギリス兵も避難。「若かったし、自分も命からがら逃げてきたから、捕虜を見ても憎いとは思わなかった。そんなこと思う余裕はなかった」と語る。
浜松町の自宅までは、市電の線路を両側が燃えさかるなか歩いた。家族の無事を確認し、その夜は近くの防空壕で一夜を明かす。「天王町の方面は真っ赤に燃えていた」
自分史として記録
中村さんは、山梨県大月市の出身で、父を水害で亡くし母と兄妹3人で1939年に横浜に越してきた。40代の頃から自身の生い立ちをはじめ、家族の歩みを記録しておこうと、資料にまとめてきたという。その一部に横浜大空襲の記述もある。「子どもたちにも、戦争の時代があったことを知らせておきたい」と話す。
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