宮前区内におさまらず、川崎市内から果ては全国まで足をのばして取材を続けながら、四半世紀にわたり戦争の事実を後世へ伝える活動をしている人がいる。「みやまえ・東部62部隊を語り継ぐ会」の大泉雄彦代表だ。
26年前-。大泉代表が宮崎中学校の社会科教諭時代、川崎市連合文化祭の発表で、陸軍東部62部隊を取り上げたことがはじまりだった。
敗戦時に当時の資料は焼却処分されほぼ残っていない。生徒たちと実際に戦争経験者らに話を聞き、当時の防衛庁防衛研究所図書館にも足を運んだ。現在発見されている軍用地境界標の大半は生徒たちが見つけたもの。校内で行ったアンケートには保護者らから多くの有力情報が寄せられた。
翌年には市郷土史研究会が出版した「平和ウォーキングマップ川崎」の宮前区エリアを担当。弊紙1995年のコーナー「人物風土記」でも取り上げていた=写真左。
興味持つきっかけに
その後も、市内の各市民館が主催する歴史散歩や市民学習グループの講師などとしてフィールドワークを行っている。活動を通じて連隊長の娘の参加もあった。有馬中に赴任してからも、夏休みの課題で戦争遺跡について調べる教え子がおり、卒業後も調査を続ける者とは、今も連絡を取り合う。大泉代表は「ここで何があったかを伝え、少しでも興味を持ってもらえたら」と活動を続ける意義を述べる。現在も非常勤講師として市内中学校で教壇に立ちながら、歴史を伝えている。
こうして大泉代表が集めてきた資料を事務局の中島せり奈さんがまとめ、冊子『戦争遺跡をたずねて』として2015年に発行して会を発足。冊子は、市内各図書館などに寄贈されている。
問い合わせは同会の山本さん【携帯電話】090・8775・1879へ。
2万人超の若者を送り出した軍用地
「陸軍歩兵101連隊・通称東部62部隊」は終戦3年前に東京赤坂から移転してきた。宮前区の約3分の1と高津区、横浜市青葉区にまたがる約9平方キロメートルが陸軍溝ノ口演習場と呼ばれる軍事施設だった。
赤紙で招集された新兵を訓練し、銃の打ち方もままならぬまま2万数千人が前線に送り出され、ほとんどが帰らぬ人となったという。
現在の宮崎中体育館の場所が連隊本部、市青少年の家は将校の集会所、鷺沼北公園は土橋探照灯陣地だった。現在区内に被服廠(しょう)と馬房(ばぼう)、お化け灯篭、軍用地境界標が残っている。
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