金沢区制70周年記念連載 「地元の歴史 振り返る」第19回 角田武夫が描いた金澤八景 文/NPO法人横濱金澤シティガイド協会本コラムでは2018年5月に金沢区が区制70周年を迎えるにあたり、シティガイド協会の協力を得て、地元の歴史を振り返る
角田武夫は金沢藩(米倉藩)の藩士の家柄である角田家の長男として明治17年(1884)5月2日に現在の金沢区瀬戸に生まれた。地元の学校を卒業後神奈川県師範学校に進み明治38年(1905)から教員として県下小学校を歴任(校長も)し昭和20年(1945)4月6日に60歳で亡くなった。
角田は子供の頃から絵を描くことが好きで教員をしながらも心は「画家」を望み、絵の勉強をして写生俱楽部にも参加し写生を続けていた。
一方、江戸時代に「金澤八景」として親しまれた金沢の地は昭和前期になると横須賀軍港の後背地として要塞地帯の規制適用範囲に入り写真撮影や写生は軍や役所の許可が必要で作品は検閲を受けなければならず、又、軍需関連企業の進出により地形が大きく変わり変貌して行くこととなった。角田は若い頃から見慣れた金澤八景の風景が変化していくことを危惧し、厳しい規制のもと自ら絵筆をとり昭和8年(1933)からスケッチしてまとめたものが昭和16年(1941)8月の『金澤百景』である。その跋文には「変る変るどんどんかはる…金澤八景もやがては名のみとなるだろう。せめては今の面影でも」とあり、その風景を残そうとしたことが書かれている。角田は他の画帖「続金澤百景」「金澤巡礼」と合せて二百点以上の金澤八景の最後の姿を残してくれたのである。
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