本牧 気まぐれ歴史散歩 【20】 南北に長かった根岸村
根岸という地名は全国にあり、細長い尾根が木の根のように長く続く岸辺という地形が語源とされています。中区も、根岸町から不動坂を登り根岸森林公園までが同じ地形であり、そのあたりを根岸と呼ぶ方が多いようですが、そこから北東へ続く山元町から麦田町あたりまでかつて「根岸村」と呼ばれていたことは、意外と知られていないようです。
永正9年(1512年)に、伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲のこと)親子から当時の本牧地域を治めていた平子(たいらこ)氏あてに出された制札という古文書に「本目四ヶ村」と記されており、漢字が異なるものの、これが初めて本牧の地名が登場したものとされています。その四ヶ村のうちの一つが、根岸村であったとされています。
村境は多少の変化があったと思いますが、根岸村はその後も明治34年(1901年)に横浜市へ編入されるまで約400年間続いた、南北に長い村でした。
近世・近代の根岸村の様子は、根岸村の名主をつとめていた新井家の文書からうかがうことができます。このコラムでも新井家文書をご紹介していく予定ですが、古文書はちょっと…という方でも、その一部を久良岐の会が編集し、わかりやすい解説を付した新井家文書を図書館で気軽にご覧いただくことができます。
次回からは、その根岸村を山元町から麦田町方面へ、さらには北方方面へとゆっくり歩いていきたいと思います。
(文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)
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