本牧 気まぐれ歴史散歩 30 震災復興の拠点となった新山下地区
新山下地区は、安定した海食台の上に築かれた町です。大正4(1905)年から始まった新山下地区の埋立は、およそ8年の歳月をかけて完成しました。埋立前に山瀬町と付けられていた町名も、大正12(1923)年2月には新山下町という名前に決まりました。
その7カ月後、関東大震災が横浜を襲いました。震災当日、横浜には北陸通過中の台風の影響で強風が吹いていました。強風に煽られた火は、三方を丘で囲まれた地に短期間ですべての都市機能を詰め込んだ横浜の町を襲いました。火災は港湾施設も近代建築も倒壊した町を次々と焼き尽くし、多くの人命とすべての都市機能を奪いました。
しかしそのような中、完成したばかりの新山下地区の被害は限定的なものでした。まだ広大な更地で港も十分機能する状態だったことから、救援拠点としてすぐに利用できる状態でした。日本中・世界中の救援隊がここから上陸し、救援物資を荷揚げして横浜各地へ運びました。米軍は野戦病院を設置し罹災者の治療にあたりました。罹災者の一時避難場所も設置。日本中・世界中の人々に助けていただいたおかげで、横浜は復興することができたのです。新山下地区は、その原動力の拠点となったのでした。
そのような歴史がある新山下地区から、千代崎川の河口方面へと向かい、本牧塙の2周目に入ります。どうぞこれからもご一緒に、この気まぐれな散歩にお付き合いください。(文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)
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