本牧 気まぐれ歴史散歩 52 『根岸の七曲り村人たちの絆を繋ぐ道』
根岸という名称は、南区堀ノ内町にある古刹・寳生寺が所蔵(神奈川県立歴史博物館保管)する寛正四年(1463年)の古文書に「平子郷根岸村」と記されていることから、およそ560年前には確実に存在する由緒ある地名だということが確認できます。江戸後期に根岸村と呼ばれていた範囲は、現在の根岸町から山元町・麦田町方面まで縦長の地域ですが、地形をみるとこれら地域が一帯であることがより理解できます。
根岸の七曲りは、根岸町から蛇行して尾根を登る急勾配の階段です。その道筋は江戸期の絵図でも確認できます。尾根を登って振り返ると、今も眼下に根岸湾が見渡せます。尾根を登り切った反対側には細長い谷戸が入り込み、本牧通りへと伸びています。地図で見ると、七曲りから谷戸を通り、現在の本牧通り方面へ続く数本の縦の道が確認できます。
江戸時代の年貢は、現在のように個人に賦課されるのではなく、村ごとに納付する米などの量が定められましたので、村人たちは湧水が作った谷戸に田畑を作り、協力して農作業をしました。七曲りの登り道は、海辺に住む村人が尾根を越えて田畑へ通い、みんなで苦楽を共にしながら働いた絆の道です。根岸村の人々の絆は、これらの道を通って縦長の根岸の村々を繋げていたのだと感じることができます。
七曲りの階段を登ったところで、次は左右どちらへ進もうか、しばし思案中です。(文・横浜市八聖殿館長 相澤竜次)
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