明日8月15日、終戦から75年の節目を迎える。戦中戦後を体験し、当時を語れる人も少なくなった今、区内野川本町在住の小泉一郎さんに、軍事工場での学生時代や、出征に発つ先輩らを見送った野川神明社、空襲、機銃掃射など、当時の体験を語ってもらった。
昭和20(1945)年終戦の年、小泉さんは横浜の浅野中学3年生だった。学校には軍刀を下げた中尉が常駐していた。中学に入学したものの学校に通ったのは最初のひと月ほど。その後は級友全員でJR鶴見線浅野駅にあった軍事工場「法専鉄工所」に通った。中学1年で電気溶接を覚え、鉄兜を作っていた。「中学校は、学校より戦争の思い出しかないかな」と寂しそうに振り返る。
1、2年時こそ順調に進んだものの、終戦の3年時は壮絶だった。「機銃掃射はしょっちゅう。すぐに飛び込めるよう、工場内のそこら中に防空壕が掘ってあって、何をするのにも場所を確認してから作業をしていた。跳弾が怖くてね、年中危機一髪だった」。7月になると、空襲警報よりも先に爆撃があったことも。「そりゃあ東京湾に米軍空母があるんだ。すぐだよ」と苦笑する。
遺体がゴロゴロと
野川本町の自宅でも空襲は何度もあった。防空壕に入ってやり過ごすが「高射砲の大きな欠片が、竹林に振ってくるとカラカラと音がするんだ。怖かったよ」。家のそばにも爆弾が降り注いだが、屋根の勾配に良い角度であたり不発。奇跡的に隣の野川神明社ともに無傷だった。近所では防空壕に爆弾が直撃して子どもが何人も亡くなった。「肉がめくれた遺体に誰も近づけない中、郵便局のおじさんは元衛生兵だったんだね。一人で担ぎ出していた。とてもじゃないけれど、できない」と首を振った。普段の空襲は夜中だったが、横浜大空襲は真昼に行われ大きな穴があちこちにあく道を歩いて野川まで帰ったこともあった。「横浜も、東京も-みんな焼けちゃったんだ」病院には焼けた遺体がゴロゴロと転がっていた。
海軍に憧れて
海軍の軍艦に憧れ、海軍兵学校に入学したくて浅野中学に通った当時。出征していく先輩たちを何人も野川神明社から地域住民で万歳をして見送った。「純粋な時代だったんだ。今では考えられない」。くんずほぐれつの喧嘩を繰り返した、仲の良かった1つ年上の先輩も返らぬ人となった。
夏の日―。川で泳いでいる時に「大事な放送があるから」と帰って聞いたのが玉音放送だった。少年だった小泉さんは「勝っているとしか聞かされていなかったから、まさかと驚いた。けれど、大人たちは薄々気付いていたのかもしれないね」と思いを巡らす。
語り切れないほどの経験を振り返り、「二度と経験したくないし、(戦争は)しちゃだめだよ」と話す。「尖閣諸島しかり他の国が何をするか、国が、日本がどうなっていくのか心配だ」
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