逗子にあった「味の素」編 ちょっと昔の逗子〈第2回〉 ヨードの製造を始める
児童文学作家・野村昇司さんにご協力いただき、明治から昭和にかけての街の様子や市井の人々の生活を史実に基づいて蘇らせます。第一弾は「逗子にあった『味の素』編」。語り継ぎたい、逗子の創作民話です。
教育熱心だった母親のナカは長男の泰助を藤沢にあった塾に通わせ、14歳になった時、三浦郡浦賀(現在の横須賀)の食品問屋へ奉公に行かせる。父・初代三郎助と同様、奉公先では店の業務を任せられるようになり、ここで相場投機の基礎知識を得る。
ナカは泰助が18歳になった時、実家の葉山堀之内へ連れ戻し、家業を継がせナカ自身は隠居の身となる。泰助の働きぶりは父にも劣らず、成果を築き上げていた。
そして1887年に呉服商の辻井繁七の次女テルと結婚。しかし、客への貸し越えが増え、次第にそれが商売の行き詰まりを生じさせる。この頃、奉公先で知り得た相場投機へと足を踏み入れるようになると、父が築き上げた財産のほとんどを失ってしまう。
隠居していた母・ナカは何とか生き延びなければと、使っていない部屋を避暑客に間貸しするようになった。幸運なことに、当時は外国人医師ベルツが「湘南海岸は健康に有効な環境である」と提唱し、避暑避寒が大流行していた。葉山に御用邸が建設されたのもこの提唱によるものである。
そんな折、日本製薬会社の技師・村田春齢の一家が鈴木家の避暑客となる。村田は困窮したナカの生活を知り、海岸に打ち上げられているカジメからヨード(甲状腺ホルモンの主原料となるミネラル)を作ることを勧めたのだった。
野村昇司
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