逗子にあった「味の素」編 ちょっと昔の逗子〈第6回〉 味の素の誕生
児童文学作家・野村昇司さんにご協力いただき、明治から昭和にかけての街の様子や市井の人々の生活を史実に基づいて蘇らせます。第一弾は「逗子にあった『味の素』編」。語り継ぎたい、逗子の創作民話です。
池田菊苗は二代目三郎助に、昆布だけでなく、大豆やジャガイモ、小麦粉等から大量にグルタミン酸を製造できることを伝え、大量生産による収益の確保を保証した。
二代目三郎助は「うま味」が世の人々に受け入れられるのか確かめるために、京都の料理屋で試食会を実施したり専門家に実験を依頼するなど、池田の提案を真剣かつ慎重に検討を重ねた。この提案を受け入れることは、これまで鈴木家が築き上げてきたもの全てを賭けること意味していたからだった。
二代目三郎助は熟考の末、特許の共有化を申し入れ承諾を得たうえで逗子工場での製造を開始する。ここで初めて「味の素」が誕生するわけであるが、池田は当初このうま味調味料のことを「味精(あじせい)」と称していた。
鈴木製薬所で製造することになれば薬くさく感じられてしまうという不安が生じた。ましてや、アルコールを「酒精」、サッカリンを「甘精」などと呼んでいた時代だ。
鈴木家は一堂に集まり、「味精」の命名を協議した。「だしの元」「カツオの元」「味の王」「味の元」という案が出され、一旦は「味の元」に決まった。しかし「元」だと日本舞踊などの家元を連想してしまう。そこで二代目三郎助の弟・忠治が「元」を「素」とする案を出したところ全会一致で決定。ここに「味の素」が誕生したのだった。
野村昇司
|
<PR>
|
|
|
|
|
|