有料名越トンネル【2】 ちょっと昔の逗子〈第12回〉 三浦半島の発展 野村昇司
児童文学作家・野村昇司さんにご協力いただき、かつての街や人々の生活を史実に基づき蘇らせます。前回から『有料名越トンネル』がスタート。名主松岡家の長男・富道はその不便さから「名越の山に穴をあけたい」と思うようになります。街のために一大プロジェクトに取り組んだ、明治の男たちの物語です。
明治という新しい時代になり、「名越の切通し」を行き来する人々が増えてきて、自分ばかりではなく、多くの人々の難儀を思いやるようになりました。人の往来が盛んになり、物資の流通が簡便になることが三浦半島の村々が豊かに栄えていくのだと思い、幼いころから思い続けてきた名越の山に穴を開ける富道の気持ちを突きうごかしていました。
ちょうどその頃、富道と同じように名越の山にトンネルを掘削することを考えていた青年がいました。富道より二歳年上の名を高橋安行といい、安行は安政二年(1855)芦名村(現在の横須賀)の生まれ、幼い時に小坪の名主高橋家の養子となりました。少年のころは富道のように「名越の切通し」を越えて鎌倉の塾へ通っていました。
安行も富道と同じように物流の発展が三浦半島の発展を約束するものと考えていました。
この当時、三浦半島の観音崎には陸軍の要塞が築かれ、芦名(現在の横須賀市)には海軍の軍港が開かれ、それだけでも「名越の切通し」の交通量が増え、役人や軍人たちに道を先に譲るという話が安行の耳に聞こえてくるようになり、名越坂にトンネルを掘削する必要性を痛切に感じていました。
(続く)
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