江戸時代に全国を測量して歩き、初めて実測による日本地図を完成させた伊能忠敬。湯河原を訪れた足跡を町民らに知ってもらおうと、旧吉浜村の名主・向笠彦右衛門と旧門川村の名主・冨岡与次右衛門の屋敷跡にこのほど、記念碑が建てられた。
湯河原町史編纂委員の加藤雅喜さん(湯河原町在住)が2017年の冬、国宝「伊能忠敬測量日記」に湯河原の文字を見つけたのがきっかけだった。
日記には第二次測量隊が1801年(享和元)に吉浜の向笠邸に2泊し、夜は神社で緯度を図るための天体観測をしたと書かれている。「新畳にて奇麗である。熱海入湯の諸侯立ち寄る所である」の記述もあった。
また、1816年(文化12)の第九次測量時には門川の冨岡邸を訪問。昼食をとり、与次右衛門の祖先にあたる武将・土肥実平の武功を聞かされると、墓のある城願寺(城堀)を参拝した記述も残されている。
「湯河原は幕末、明治、大正と大きな津波に3回遭っていて資料が全くなかった。町史にも出てこない情報だった」。日記を読み、湯河原と忠敬との関係に驚いた加藤さんは、「町民や観光客に広く知ってもらいたい」と、記念碑の建立を検討。早速、子孫を探し出して埋もれていた歴史を伝えた。両家の子孫は「聞いたことがない」と初めはなかなか話を受け入れなかったが、加藤さんが何度か足を運んで説明すると、「誇らしい」と喜んだという。
昨年4月にまず城願寺、向笠邸、冨岡邸の3カ所に記念の標柱を立て、同年夏には加藤さんが所属する「土肥会」(深澤昌光会長)が湯河原町に働きかけ、城願寺に本小松石の記念碑を建立。このほど、向笠邸と冨岡邸にも同じ仕様の記念碑が完成した。石碑にはそれぞれ、測量隊が訪れた日や日記の一文が刻まれている。
10月14日には吉浜で記念碑完成式典が開かれ、冨岡家と向笠家の子孫はじめ、土肥会のメンバー、冨田町長らもお祝いに駆けつけた。加藤さんは「歴史を繋いでいくのが夢。足跡調査は小田原まで伸ばしたい」と話した。
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