1945年8月6日――。広島に世界で初めて原子爆弾が落とされた日から、まもなく67年。ちょうどその頃、旧陸軍の船舶兵として広島に赴任していた荒井章さん(87)=日野在住=に話を聞いた。
30代半ばから家業の農家を継ぎ、米寿を間近に控えた今もなお2日に1度は自ら運転する軽トラックで畑に向かい、農作業に汗を流す荒井さん。「命を粗末にしてはいけない。人生とは、終始まじめに仕事に精をだす。そういうことかな」。そう語る言葉からは、戦禍を生き延びたからこその重みがひしひしと伝わる。
船舶兵として戦争へ
横浜市日野尋常高等小学校(現・日野小学校)を卒業後、国鉄に就職。若いながらも手旗信号で列車を誘導する重要な仕事を任され、充実した日々を過ごしていた。
そんな中、太平洋戦争が勃発。戦争が色濃く影を落とし始め、配属先の恵比寿駅でも連日出兵兵士を見送る家族の姿が見られるように。「先輩も順々に戦争に行き、二度と帰って来ない人もいた。自分もどこへでも行くぞという覚悟でいた」
戦況が厳しさを増してきた45年2月末、荒井さんの元に召集令状が届く。「子どもがいるわけでもなかったし、戦争に行くのは男として当たり前のこと。慌てることもなかった」
ようやく下りた指令
船舶兵として上陸用の船舶の運用などを担う旧陸軍の2940部隊に配属され、ただちに生まれ育った日野を離れて愛媛県の海沿いの町へ。「国鉄のそれとはだいぶ違ったので混乱し、難しかった」という船上の通信手段に使う手旗信号の訓練を受け、さらに2カ月半後には新たな訓練地の広島市へ移った。
約100人いた部隊の仲間が次々と瀬戸内海の島などに派遣されていくなか、荒井さんにもついに移動の指令が下され、広島を離れたのは8月4日夕刻のこと。一瞬にして広島を焦土と化した原爆投下まで1日半前の出発だった。「宮島の厳島神社が夕日に照らされていた」。鹿児島市に向かう列車の車窓から眺めた光景が、今も鮮明に記憶に残っている。
広島に原爆が落とされたのを知ったのは、熊本を通過した頃。とはいえ情報は乏しく、「われわれに伝えられたのは広島におかしなものが落ちたらしいという程度。部隊に混乱はなかった」。鹿児島市に到着してまもなく終戦を迎えたが、そのわずかな期間にも機銃掃射を受けて同じ部隊の仲間数人が命を失った。
帰還に喜ぶ家族
その後、9月3日に帰還。実家にあてた唯一の手紙が広島から投函したものだったため、荒井さんの無事をあきらめていた家族は思わぬ帰宅に全員が外に飛び出して大喜びで迎えてくれたという。「亡くなった仲間には申し訳ないけれど、『あぁ、嬉しいなあ』と思った。それからすぐ風呂につかった」。ゆっくりとした口調で当時の記憶を語る。
8月6日の広島平和記念式典には毎年テレビの前で手を合わせ、「これからも悪いことをせず、一生懸命に生きて人生を全うしたい」と願っている。
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