戦後70年 横浜大空襲を生き抜いて 市内在住の2人に聞く
今年戦後70年に際し、本紙は戦争を体験した、下和田在住の河口イチさん(82)と上和田在住の芦沢康江さん(84)から話を聞いた。戦時中2人は、横浜市に住み横浜大空襲を体験している。
「空が突然真っ暗に」
横浜市の人口の3分の1である31万人が被災した無差別爆撃「横浜大空襲」が起きたのは、1945年5月29日。その日は午前8時半頃から空襲警報が鳴り響いた。当時13歳だった芦沢さんは学校に行く支度をしていたが、「警報が鳴ったから学校は休みだ」と喜んでいたという。それまで横浜には大きな空襲はなかったため、危機感はなかった。しかしその後、爆撃機B29約500機、艦載機約100機が襲来。「昼間なのに、空は真っ暗になった」。芦沢さんは水の入ったやかんとおひつを抱えながら、家族で逃げた。「けがをした人がたくさんいて怖かった」と話す。
一方、被害が甚大だった現在の神奈川区に住んでいた河口さんは、当時12歳。弟を背負い逃げている最中、不発弾が暴発。防空頭巾をかぶっていたので頭は守れたが、右手にやけどを負った。「火ぶくれして痛かった。ショックで当時のことはあまり覚えていない」。
「戦争は絶対に嫌」
8月15日に終戦を迎えると、これまでの生活が一変。食事は戦時中よりも困窮したと2人は語る。お弁当は、お粥状のご飯に細かく切った大根やサツマイモのつるを混ぜたもので、持っていくのが大変だったという。「当時は生きるのに必死だった」と河口さん。
当時は物資不足も深刻だった。芦沢さんは火にくべるものを探していたが、捨てられていた進駐軍の段ボールを持って帰ろうとすると進駐軍に突然銃を向けられたこともあったという。「空襲の夢を60歳まで1年に1回は見ていた。忘れられない」と芦沢さん。
その後2人はそれぞれ結婚し、大和市へ。子どもや孫にも恵まれた。「今でもジェット機や花火の音を聞くと当時を思い出す。戦争は絶対に嫌。命を大切にしてほしい」と口を揃える。
|
<PR>
|
|
|
|
|
フリマ出店者30日まで受付4月26日 |
|
|
<PR>