新井淑雄さん(75歳・日野南在住)は1936年、東京市深川区(現・東京都江東区)で誕生。5歳の時に太平洋戦争が勃発した。
国民学校に進級した43年の秋には父が出征。1年生の少年にとって戦地に赴く父の姿は誇らしく、日の丸の小旗を振りながら両国駅までの道を歩いて見送ったが、その後、父はロシアで病死。これが今生の別れとなった。翌年に同居していた祖父が他界して間もなく、日本本土への空襲が激化。深川を離れ、1人で埼玉県へ縁故疎開することに。
しかし疎開先の暮らしは退屈で、「死ぬ時は家族一緒がいい」という母の願いもあって45年3月8日、2カ月ぶりに帰宅。「隣家の6年生のお兄さんの卒業式があることを口実にした。すぐ帰るのは格好悪いから」。
その卒業式が予定されていた3月10日は戦前、陸軍記念日に制定されていた日。そんな節目は敵に狙われがちで、友達と「きっと明日は(米軍が)大戦果を挙げるね」と話した日の深夜のこと。8万人以上の犠牲者をだし、後に東京大空襲と呼ばれる大惨事が発生する。
運を天にまかせて
日付が10日に変わった頃、付けっぱなしのラジオから空襲警報が流れると、母は1歳の妹を背負い、祖母は年長の妹の手をひきつつ非常食や衣類が入った包みを抱えて家を飛び出した。「私は防空頭巾をかぶり、教科書が入ったランドセルを背負った。教科書は貴重品だったから」。もうもうと煙が立ち込めるなか、祖母の指示で300m程離れた「清澄庭園」に走った。
庭園に着くと、炎や熱風を避けようと池の淵に座り込んだ。その後も逃げてくる人であふれる園内。人波に押され、荷物を背負ったまま池に落ちた溺死体が次々と浮かんだ。「誰も並びなんかしない。皆、生きるか死ぬかで必死」。
木造が多い日本家屋を狙った焼夷弾は瞬時に辺りを焼き尽くした。立ち上る炎は「どす黒かった」。頭上に飛び交うB-29爆撃機の轟音が響くなか、園内にある講堂からも青白い炎が上がり、中からは泣き叫ぶ声が聞こえたが、「何もできない。自分達も安全の保証はなく、運を天にまかせて耐えしのぐしかなかった」。
恐怖の一夜が明けた―。周囲は煙と臭気に包まれ、見上げた太陽は薄ぼんやりと見えた。「隅田川の川向こうは大丈夫だろう」と月島の親戚へ向かう道中、自宅のあった場所も分からなくなった焼け野原は死体で埋め尽くされていた。
子を抱えたまま黒焦げになった親らしき死体。熱気で体の水分が失われてしぼんだ死体、名札から同じ学校の女児とわかる死体も。だが、何も感じない。「麻痺していた。戦争は人間をおかしくする」。途中、山積みになった死体の脇で炊き出しの握り飯を頬張り「それでも腹は減るんだと思った」。
あれから半世紀以上。移り住んだ港南区で、退職後は地域に少年野球チームを立ち上げたり、地区社会福祉協議会の事務局長などを務めて福祉活動にも励む。「苦労する人を助けたいと思うのは戦争を経験した反動かな。平和は大事というより当たり前だよ」。
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