市政報告 平和のために語り継ぐべき横浜大空襲の体験 日本共産党横浜市会議員みわ 智恵美
今から76年前の1945年5月29日。アジア太平洋戦争末期のさなか、米軍は横浜市で無差別大空襲を実行しました。私は横浜市会議員として、横浜大空襲をはじめとする戦争体験のお話を次世代につなげていくことが重要と考え、体験者にお話を聞かせていただく取り組みを続けています。
「昼間なのに真っ暗」
港南区笹下在住の渡辺房子さんは、当時7歳で神奈川区に7人家族で暮らしていました。大空襲の日は父が不在で、午前10時過ぎに空襲警報が鳴り、防空壕に妹と入れられていました。「ここにいてはだめだ、逃げよう」と言う母と防空壕から出ると、昼間なのに辺りは夜のように真っ暗であちこちに火の手が上がっていたそうです。
母が夏布団を防火水槽につけてずぶ濡れにし、子どもたち一人ひとりの防空頭巾の上からかけました。大きな屋敷に逃げ込もうとした時、そこに落とされた焼夷弾が屋根を貫き、あっという間に火に包まれました。誰かが「横浜駅に逃げよう」と言ったので駅に向かい、駅の周りの植え込みに頭を突っ込んで布団をかぶったままじっとしていました。
弟を背負った母が、妹がいないことに気づき、必死の形相で妹の名前を呼びながら探しました。ぐったりして倒れている女性のそばで妹は大声で泣いていました。今でも、その女性を助けることができなかったと心に残っているそうです。
渡辺さん一家の住居は焼失し、お寺の境内や知人の蔵などを転々として暮らしました。その後に移った市の簡易住宅は雨漏りがして星の見える家だったそうです。妹と毎日、道端の草を採りに行くと、米軍のパン工場からパンを焼くいい匂いがしました。自分たちの腹ペコの暮らしとの格差に感じた悔しさは忘れられないといいます。
渡辺さんは中学3年で日本国憲法と労働基準法について学びました。「憲法を変える動きは戦争につながるもの」といい、戦争体験者として敏感に声を上げたいとまっすぐに語られました。
戦争から時間を経過した今だからこそ、体験者の声を生かし、横浜市の平和政策を進めます。
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