「日本中が常軌を逸していた時代だった」――新石川在住の氣賀(けが)健生(たけお)さん(88)は口を開く。1941年の太平洋戦争開戦時、旧制中学校2年。14歳だった。
キリスト教神学者で牧師の父のもとに生まれ、進学した青山学院中学部は「当時には珍しく、実に自由主義だった」。巷に軍歌があふれ、軍事教練が必修となり陸軍将校が出入りするようになっても「鵜呑みにするな」と注意する教師。図画の授業では「固定観念を捨て、感性を絵に表わせ」と教えられた。「あの戦争の時代によく、と思う。狭い空間の中だったが幸せなことに自由を満喫できた」
5年になってすぐ、学徒勤労動員で品川の製鉄工場に駆り出された。「1週間の予定がどんどん延長された」。戦火が激しさを増すにつれ、物資がなくなり材料が届かず、作業できない日が続く。「材料が来ない時は勉強させてくれ」と、工場内に読書室を作るようかけあった。ある日「勤労せずに本を読んでいる」と密告され、憲兵隊に連れて行かれた。「お前の神と天皇陛下とどっちが偉い、と聞かれた。そんな比較自体が意味をなさないと答えたらごまかすな、と殴られた。連中の気が済む返事をしないと帰れないんだ」。殴られ続け一晩留め置かれたが、生徒の中に陸軍元帥の畑俊六の孫がおり、その口添えで無事帰されたという。
45年3月に卒業し旧制第二高等学校(東北大学の前身)に進学。寮生活を送っていた7月、仙台空襲があり、中心部が全て焼けた。徴兵年齢の引き下げで、召集令状を受け取ったのはその後のことだ。「ついに来たか」。死ぬに決まっている、と覚悟した。9月2日、本籍地の静岡県三島市の野戦重砲兵連隊に入るはずだったが、ほどなく終戦を迎えた。8月15日の晩、寮に代々伝わる蓄音機で1人、弦楽四重奏を聴き続けた。「終わったのだ」と、赤紙をビリビリに破いて捨てた。
あれから70年。遠い記憶をたどりながら、日本の将来を憂う。「こうありたい、と思うことを自由に言えない状況はよくない。そういう世の中にしたくない」
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