学徒勤労動員により、中学5年生(高2)で故郷の福島県を離れ、相模陸軍造兵廠(現・在日米陸軍基地相模総合補給廠)で働いていた鈴木光男さん。赤痢や腸チフスを患う生徒も多く、貧しい上に厳しい労働環境だったが、そんな日常にも人と人との交流があった。
鈴木さんは県内外の中学生が動員された工場で、機械の扱いに慣れていた神奈川工業学校の生徒たちに、作業を教えてもらったのを覚えている。「初めて神奈川の地元の友だちができた感じだった。できることならまた会いたい」。今もそっと再会を願う。
空襲が激しさを増す中、工場から丹沢の山を眺めては、動員前に文通をしていた丹沢豊太郎さんに思いをはせていた。満州国に出兵していた丹沢さんのもとに、鈴木さんが送った慰問袋(手紙や食料を入れて戦場の兵士に送る袋)が偶然届いたことがきっかけで始まった文通。直接会ったことはなかったが、丹沢さんは鈴木さんを弟と呼び、愛情を込めて返事を書いた。
鈴木さんが詩を送ると、「素晴らしい詩ありがとう。…自分のこと以上に喜び、内心得意に戦友に語った。だって弟だもの」。悩みを手紙に書くと、「光男君くらいの頃には、よく味わう悩みなり。…若き力と情熱を十分に発揮して、君の個性を生かして、一心に邁進してください」。その後「過日は兄めいたことを並べ、恥ずかしい限りです」と送ってきたりした。
鈴木さんは「故郷を離れた北満州で孤独のなか、中学生に愛情を注いだ22、23歳の兵隊さんの心情を思うと今も胸が痛む」と振り返る。丹沢さんがグアム島で戦死したとの知らせを受けたのは、戦後しばらくしてからだった。
「いつか誰かが戦争の記録を調べたいと思った時、役に立てば」。前作に続き、学徒勤労動員の記録を残そうと、自伝『ゲーム理論と共に生きて』(ミネルヴァ書房)を一昨年に出版。少年だった鈴木さんと、縁があった人たちとの交流が垣間見える。本は、今も聞こえてくるという丹沢さんの声で締めくくった。
「みんな元気か、日本国は健全か、希望をもって生きてくれ」
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