自分が戦争を語っていいのか――。
市ヶ尾町在住の柏村茂さん(82)は、5年ほど前から、手づくりの紙芝居を通して小学校などで自身の戦争体験を語っているが、紙芝居を手にするたび悩む。「もっと辛い思いをした人がいるのに」と、自分が語ることに気が引けるからだ。柏村さんは当時、疎開した多くの子どもたちの一人だった。
6人きょうだいの長男に生まれた柏村さんは、静かな町、東京都の百人町で少年時代を過ごした。小学2年で第二次世界大戦が始まると、学校教育は徐々に軍事色を帯びた。「欲しがりません、勝つまでは」「撃ちてしやまん」。教室に張り出された言葉を皆で読んだ。
弟と集団疎開したのは小学校5年の時。出発前日、食糧不足のなか、母親は2人に小さなドーナツを用意した。「いつも気丈な母が私たちを抱きしめて泣いてね。ただごとじゃないと思った」
茨城県石岡市の如来寺に疎開をしたが、海軍航空隊の基地が近くにあり攻撃を受ける危険があるとして、柏村さんらは再び疎開。食べ物がなくなりカブやサツマイモを食べる日々が続いた。空腹から、「迎えに来て」との思いで、ハガキに×印を書いて両親に送った。「検閲があって迎えに来てとは書けなかったから」。×印は次第に大きくなっていった。
再疎開先の群馬県富岡市で過ごしていた3月10日、東京大空襲が実家を襲った。焼夷弾が家を直撃し、爆風と熱風で防空壕に飛ばされた祖母が大たい骨骨折の大けがを負ったという。一家は帰る家を失い、父親が働く山梨の工場に身を寄せることになった。
疎開先で終戦を迎えた柏村さんは父親に連れられて山梨に向かう途中、東京の実家に寄った。残っていたのは、自転車のサドルと米国製の鉄の鞄。開けると洋服は焦げて紙のようだった。自然の中で遊んだ百人町は焼け野原になり、友だちの消息も分からなかった。
それから約70年。戦争体験を伝えたい一方で、「戦争中は誰もが悲惨な目にあっていた」と、自重しようか迷うこともある。後ろめたさは今も消えない。だが気付けば当時を知る人は少なくなり、戦争を伝える声が小さくなってきた。「だから今の子どもたちに」。葛藤しながら、模索を続ける。
青葉区版のローカルニュース最新6件
|
|
|
|
|
|