東日本大震災から今年で丸8年を迎える。弊紙では、東電福島第一原発事故で福島県双葉郡浪江町から青葉区に避難してきた伊藤まりさんにインタビューを行い、当時の様子や横浜での暮らし、浪江町への想いを聞いた。
「あの日、着の身着のまま家から避難して、8年。将来を考えると今も不安ばかりです」。と話す伊藤まりさん(59)。
現在は、NPO法人WE21ジャパン青葉の代表として店舗の運営やボランティア活動に従事する日々を送っているが、2011年10月に7カ所目の避難先として夫と青葉区の借家に移ってきたときは「このまま社会から取り残されるのではないか」と不安だったという。
すぐに帰れるはずが…
浪江町では創業100年を超える実家の鉄工所を手伝いながら、小学校の非常勤講師などを務めていた。その日常を一瞬で奪った震災と原発事故。震度6強を記録した地震の直後、外に出ると街の景色が一変していた。周りの住宅は軒並み潰れ、町中にはサイレンが鳴り響いていた。津波から逃れるために小学校の体育館に避難したが「すぐに帰れるだろう」と荷物も持たず、家の片づけもそのままに飛び出した。
翌朝には詳細を知らされぬまま郡北西部への避難が命じられ、そこで防護服を着た人を見かけるようになった。「何かおかしい」と感じたが、停電で情報がなく原発事故のことを知らなかった。そして数日後にはより遠くへ避難命令が出るなど、両親と飼い犬を連れて転々とする先の見えない避難生活が始まった。
帰るのか、帰れるのか
そうしてたどり着いた青葉区での生活。「横浜は主人と最初にデートした場所。でも、それ以外に何も分からなくて」。覚悟を決め、新しい場所で人生をスタートさせようともがき続けてきた。そんな中で偶然、WE21ジャパン青葉が開いた震災関連の催しが縁で活動に参加するようになった。
あれから8年。一昨年3月には浪江町の避難指示区域が解除され、来年3月には県の住宅供与支援も打ち切られる。浪江に帰るか、横浜に残るか―紡いだ縁を再び切られる決断を迫られる。年月が過ぎて人々の震災の記憶が薄れても被災者にとって安息の日は遠い。「でもね、」と伊藤さん。「あの苦しい避難生活の中で、『形は悪いけど、いがっぺか』と土のついた野菜をくれた農家のおばちゃんたち、そして横浜でも本当に多くの人たちに助けられた。だから、私にとって3月11日はたくさんの人に感謝する日ということを忘れずにいたい」と笑顔で語った。
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