田園都市物語 たまプラ編 東急電鉄(株) 元専務取締役 西山克彦
昭和28年11月に東急電鉄会長、五島慶太翁によって発表された城西南地区開発趣意書は川崎、横浜、町田、大和の4市にまたがる地域の有力者、土地権利者の賛同を得、街造りが開始されました。
当初の計画では将来のモータリゼーションを見越して、高速道路を軸とした街造りを図ろうとしましたが、検討の中で大量輸送そして沿線住民へのサービスを充分に行うためには鉄道が最適であろうということになり、現在の田園都市線を軸とした街造りに邁進することになりました。
昭和34年、川崎市野川で区画整理が始まり、田園都市線が開業した昭和41年には16地区1300haの開発が同時に進められていました。この地域は多摩丘陵の一部で標高差がさほどありませんでしたが、地形のしわが細かく大工事が行われていました。
昭和41年4月1日、田園都市線が開業。駅名も「たまプラーザ」としゃれた名前が発表されました。昭和57年には東急SC(ショッピングセンター)が開業。「たまプラーザ」は多摩田園都市の中心として大発展を遂げました。
しかし、46年前のたまプラーザは…。駅舎の中に下駄箱があり、泥だらけの長靴を履きかえて電車に乗って通勤、通学をしたのです。この時代、この地域には舗装道路がありませんでした。しゃれた駅名、しゃれたモニュメント、そして無粋な駅前交番。こんな時代があり、懐かしく思われます。
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