10年前の東日本大震災直後、横浜市消防局の特別高度救助部隊の隊員だった吉田雅史さん(現青葉台消防出張所長)は2回に渡り被災地での活動を経験。派遣先は、宮城県仙台市と福島第一原子力発電所。当時を振り返りながら現在の活動について語ってもらった。
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吉田さんが宮城県の被災地に入ったのは震災3日後の3月14日から5日間。活動場所となった中野地区では、津波の被害で家の基礎だけが残り、地平線が見えるほどに被害を受けていたという。取り残された人がいないか、瓦礫の中をかき分け続けたが人命救助は叶わず亡くなった人々の収容が続いた。発災から3日経っていたこともあり、取り残されていた遺体は、車の中や建物の非常階段の上など、多くが必死に避難しようとした人だった。「人を助けたいと思っていても挫かれる思い」。それでも「1日も早くご遺体を家族の元へ」と捜索を続けた。
1回目の派遣を終えて間もない22日には、福島第一原子力発電所へ。水素爆発などが起きていた原発では、使用済燃料プールの冷却が急務となっており、海水からの放水活動を東京消防庁から引き継ぐのが任務だった。しかし原子炉建屋から黒煙が上がったため国からの指示で緊急退避に。放射能の中での活動に備え、現地で準備や訓練を行い退去となった。
現地での言葉胸に
今でも鮮明に思い出すのは、宮城県への派遣を終えて宮城野消防署の署員たちから見送りの際に言われた言葉。署員自身や家族も被災し、苦難の中にいたはずだが「震災には絶対負けません。必ず復興しますからまた来てください」と決意と感謝の気持ちを伝えられた。そこから「職業を超えて東北とつながりたい」という思いに。プライベートでは中学ラグビーチームのコーチも務めていることから、震災後は東北の子どもたちとの交流を兼ねて毎年、岩手県に遠征に行くようになった。
3年前にはラグビーワールドカップの会場であり、復興のシンボルとなった岩手県・釜石鵜住居復興スタジアムが完成。そのこけら落としにチームが招待され、岩手県のチームと交流試合を行うなど、その縁は今も続いている。
やるべき備えは
震災から10年、現在は青葉台消防出張所の所長として署員のマネジメントや地域で防災への啓発に勤しむ日々。地域の防災講話や署員に当時の経験を語ることもあり「横浜でも今後起こりうる大震災に向けて防災意識を高めてほしい」とあえて想像を絶する悲惨さや悲しみもリアルに伝える。
「被災した場合、家族との連絡体制はどうするか」「食料や水などの備蓄品の備え」「自分が住んでいる地域の特性を知ること」も重要とし、危険な場所などの地理、自分たちの避難場所の確認などを事前にしてほしいと話す。
青葉区について「地域の人の防災意識が高い」としつつ「一部の人に留めず沢山の人が自分事としてとらえることが大事。地域で顔が見える関係を構築し、訓練等を継続してほしい」と吉田さん。「災害は忘れたころにやってくる。風化させず節目の時こそ思い出し、災害に備える意識をしてほしい」と話した。
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