【現場リポート】東日本大震災 寄 稿 嘆きを希(のぞみ)の光に 民主党衆議院議員 たちばな秀徳
◆国会内対策本部にて
3月11日の東日本大震災の発生直後から、私、たちばな秀徳は、幹事長補佐として民主党幹事長室に入り、24時間体制で対応にあたっております。
閣僚と同様に不眠不休の対応が続くなか、被災地からは、遺体多数発見の生々しい状況など、想像を絶する情報が続々と寄せられてまいりました。遺体の土葬許可や食糧・水の供給など、首相官邸や各省と連動した対応が続いています。
◆被災現場へ
震災から1週間後の3月18日に、救援物資を満載し、15トントラックで茨城県鉾田市と大洗町に向かいました。これらの地域は今、福島第一原発の事故による農産物の放射能汚染や風評被害に苦しめられています。 スペインでは先月、風力発電が総電力供給の21%に達し、最大の供給源となりました。特定の電力会社が政治家にもマスコミにも強い、日本におけるその弊害は明らかです。しがらみを断ち切り、クリーンエネルギー政策への転換を図る―決意を新たにしました。
震災9日後の3月20日夜には、自分の運転で宮城へ。石巻市では、まず荒涼たる光景に衝撃を受けました。瓦礫(がれき)の中に、ドラゴンボールの子ども鞄や子ども達の写真を見つけ、涙が止まらなくなりました。
前日夜、震災以来久々に帰った自宅で、我が子達とドラゴンボールを一緒に見たばかりでした。
石巻市災害対策本部の副市長にこの鞄と写真を託し、石巻市立港小学校(避難所)を訪問。24時間ろうそくや生理用品など物資を届けました。避難所の方々は下着やストーブ、ドラムロール、ドライシャンプーの供給を要望されました。
団地の屋上に乗用車が打ち上げられていた南三陸町では、私が現地に入った当時、人口1万7300人のうち死者・行方不明者が1万人を超え、360度が想像を絶する光景でした。
町長さん御自身も行方不明になっておりましたが「自分が町民の命を守る」とのご一念で、役場屋上のアンテナに摑まり、大津波から生還されました。
絶望的な状況でも絶対に諦めない政治家、リーダーの資質を考えました。
被災自治体の首長からの要望は、【1】国支援の廃棄物(瓦礫の山)処理、【2】生活再建支援制度の拡充、【3】仮設住宅建設の支援、【4】部落単位での疎開でした。
◆日本人は必ず復興できる
仙台市宮城野区では、生活物資を求める人々の行列、ガソリンを求める数Kmの車の行列。行儀良く整然と並んでおられるなかタンクローリーが到着。
海外から称賛される道徳を失わない日本人の良さを垣間見、誇りに思いました。
「私達日本人は復興できる!」そんな思いで、被災地を後にしました。復興のため、政策に立法に力を尽くして参ります。
■民主党 たちばな秀徳
【電話】046(205)4281
ツイッターで日々つぶやき中。http://t13.jp
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