1977年9月27日午後1時20分頃、厚木基地を離陸した米軍機がエンジントラブルにより旧緑区荏田町(現青葉区荏田北3丁目)に墜落した。事故現場付近に住んでいた土志田和枝さん(当時26歳)を含む9人の死傷者を出した事故から間もなく40年。和枝さんの2歳年上の兄、土志田隆(68)さんに当時の状況や現在の心境を聞いた。
◇◇
「妹さんの家が燃えている」。事故を知った隆さんは、青葉台の職場から和枝さんの自宅へ向かった。けたたましくサイレンが鳴り、ただごとではないと感じたという。家は原型をまったく留めておらず、柱だけが残っていた。地面が大きくえぐられ、米軍機のエンジンらしきものが転がっている。「とにかく、悲惨な光景だった」と振り返る。
すでに和枝さんたちは搬送されており、藤が丘病院の集中治療室でやっと会うことができた。「お兄ちゃん、助けて」。40年経った今も和枝さんの悲痛な声が頭に鮮明に残っているという。和枝さんの3歳と1歳の息子は翌朝までに亡くなった。「2人とも全身やけどで、包帯でぐるぐる巻きの状態で横たわっていた。もう手遅れだった」
和枝さんも全身の約8割にやけどを負い、顔以外はすべて包帯で巻かれていた。「なんとか、助かってほしい」。その一心で親族は声をかけ続けた。奇跡的に一命を取り留めたものの、和枝さんの壮絶な闘病生活が始まった。
事故の苦しみ 今に伝える
闘病生活示す筆談
壮絶な闘病生活を物語る資料が、緑区北八朔町にある社会福祉法人和枝福祉会の資料室に静かに置かれている。同法人は和枝さんの「元気になったら、福祉の仕事で恩返しがしたい」という思いを父親である勇さんが引き継ぎ、1988年に設立された。障害者や高齢者への福祉サービスなどを提供している。
資料室には、のどに管を挿入され、話すことができなくなっていた和枝さんの筆談による紙片が残っている。事故翌年の4月頃から10月にかけて書かれたものだ。紙片には、「明日の手術いや 考えると気が狂いそう。気持をしっかり持たなくてはと思っても、今もちょっと考えただけでどきどきして息苦しくさえなった。自分がこわい。いつやるにしてももういや」という和枝さんの悲痛な叫びが綴られている。
体を消毒するために硝酸銀の薬浴治療も続いた。「擦り傷の消毒でも痛い。それが全身だから。想像を絶する痛みだったと思う。ノイローゼのような状態になっていった」と隆さんは振り返る。「子どもにもう一度、会いたい」。その一心で、和枝さんは皮膚の移植手術やリハビリなどに必死に耐えていたという。
子どもの死を知る
和枝さんが子ども2人の死を知らされたのは、事故から1年4カ月が経った頃だった。「子どもが死亡したと知れば、生きる希望をなくしてしまう。病院の先生とも相談し、本人のためにも、回復してから子どもの死を伝えよう」と親族で決めた。事故のことを伝える新聞記事や雑誌についても死亡の事実が書かれていないものを選び渡した。「子どもに会いたい。写真を撮ってきて。声のテープを録ってきてくれ」と周りにせがむこともあった。
子どもの死は、夫と勇さんの口から伝えられたという。当時の和枝さんの日記には「私にとって一番悲しい事を聞かされた。今日も子供の死がかわいそうで泣き続けた。もうすぐ自分が治って子供のところへ行けるとただそれだけを楽しみに頑張って生きてきたのに事故の次の日に死んでいたなんて夢にも思っていなかったので死んだ事を伝えられた時には信じられなかった」と書かれていた。「2人の子どもをもう一度、抱きたい」という和枝さんの願いは叶わず、ショックで泣き続けた。
自問自答の日々
和枝さんは事故から4年4カ月後の1982年に31歳という若さでこの世を去った。心因性の呼吸困難だった。「なぜ、妹や妹の息子たちは亡くなったのか。墜落の原因や責任の所在はどこにあったのか」。今も、隆さんは自問自答を続ける。
事故から40年。「私たち、家族の人生は事故で大きく変わってしまった。事故は、2度と繰り返されてはならない」と語気を強めた。
青葉区版のトップニュース最新6件
|
|
|
|
|
|
|
<PR>