蹴球闘魂(上) ドーハ知る「あざみ野の父」
サッカー界最大のお祭りであるワールドカップ(W杯)が6月、ブラジルで開幕する。あざみ野エリアを拠点に活動する少年サッカーチーム「あざみ野FC」の村上源也総監督(75)は20年前、W杯初出場を逃した「ドーハの悲劇」をその現場で見ていた。
W杯アメリカ大会のアジア地区最終予選が行われたカタールのドーハで、当時の日本代表チームは後半のロスタイムにゴールを奪われ、つかみかけていたW杯の切符を逃した。TV局のプロデューサーとして代表選手と同じ競技場にいた村上さんは「頭が真っ白になった。グラウンドの選手と一緒で俺も動けなかったよ」と当時を振り返る。
試合終了のホイッスルとともにグラウンドに倒れ込む日本代表の選手たち。Jリーグ発足元年でサッカー熱に浮かされていたファンには、まさに天国から地獄へ落とされる結果となった。代表選手やマスコミ関係者を乗せた本国行のチャーター機の中は「みんな疲れ果てて、各選手が自分の殻に閉じこもっていた。機内はものすごく静かだったよ」
スタートは5人
今では神奈川県内の強豪として全国区の「あざみ野FC」も、1980年の設立当初はたったの5人しかメンバーがいなかった。
港北区の日吉に住んでいた村上さんは立ち上げの2年前、あざみ野へ引っ越してきた。しかし、当時のあざみ野にはチームがなく、自身の息子が所属する港北区で「お父さんコーチ」を務めていた。「あざみ野の子どもにもサッカーの素晴らしさを知ってほしい」と、近隣の小学校関係者らと協力しチームを設立。
翌年の3月、仕事を通じて親交のあった、ブラジルでもプレーした元プロ選手のセルジオ越後さんを招いたサッカー教室と「第一回セルジオ杯争奪少年サッカー大会」を、開校したばかりのあざみ野第一小のグラウンドで実施した。「本場のプレーを見せてあげたくてね。セルジオのリフティングを見ていた子どもは、口をポカーンとあけて魅了されていた」と笑みを浮かべる。
「少年の・少年による・少年のためのサッカー」を合言葉に、「競技を通じて家族の絆を深め、地域の発展に貢献していけたら嬉しい」。設立から34年目を迎える現在、園児から小学6年生まで約190人の大所帯に。「子どもにはサッカーの楽しさを知り、サッカーを自分の最も親しい友人にしてもらえれば嬉しい」
―続く
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