寄稿 戦争体験記〜東京大空襲〜 語り継ぐ戦争の記憶【3】 港南区遺族会 新井 淑雄
黒焦げの人たち
東京大空襲のあった、長い恐怖の一夜が明けました。気が付いて水筒の水を飲み、生きた心地を感じました。まだ煙と臭気がいっぱいです。目を向けると庭園の池の中には荷物と一緒に沈んでいる死体もあちこちにありました。時折、生き残った人がずぶ濡れで荷物を取り上げていましたが、それも誰のものか分かりません。ただ、ぼーっと眺めていました。
電車通りへ出ると周りには逃げ遅れて窒息死した人がいました。身体の水分が失われ、そのまま小さくなって倒れています。着衣の人の左胸には住所、氏名、学年、血液型を書いた名札があり、同じ学校の女の子だと知りました。完全に黒焦げの人も積まれています。目をそむけても、その先にも人が倒れています。
道端には子どもとお母さんの死体、顔の形がはっきりしている死体、黒焦げの死体がありましたが、恐怖心も感じず、茫然自失の状態で周囲を見ていました。
我が家の跡も判らず、家の前の墓地もめちゃくちゃでした。祖父の墓標もありませんでした。祖母は近所付き合いのあった人を思い、涙を流しました。その人たちとは以後、会うことはありませんでした。
深川から月島へ
都電通りに出ると、そこには炊き出しの人がいました。焼死した人に焦げたトタン板をかぶせた横で「おむすび」を頂きお茶を飲みました。電柱が焦げて斜めになり、電線はぶら下がっています。付近も家がなくなり、コンクリート建ての深川区役所、図書館、明治国民学校だけがポツンと見えます。
祖母が「月島は川向うだから焼けなかったろう」と祖母の妹の一家がある月島に行先を決めました。門前仲町の交差点をまっすぐ進み、越中島から月島に入りました。(続く)
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