徒然想 連載275 花のお寺 常泉寺 住職・青蔭文雄
今月は、花の開くは栽培の力を仮らず。自(おの)ずから春風の伊(かれ)を管待(かんたい)する有り、です。
出典は、鎌倉、大応(だいおう)国師(こくし)の言葉。『大応国(だいおうこく)師語録(しごろく)』。意は、花が開花するのは人の手によってではなく、大自然に春の風が吹いて花の開くように世話をしているからである、ということです。
この文言は、師が博多の崇福寺に住したときに、正月十五日に弟子達に話したものです。このような道歌があります、「年ごとに 咲くや吉野の山桜 木を割て見よ 花のありかを」。
たずねても見当たらぬものの中から、春になるとあの爛漫たる花が咲き乱れるのですから、不思議というほかならない。この不思議な自然の妙を、師は、「春風が吹いてかれ(花)のお世話をするからだ」と教えています。そこに「おのずから」と言わざるを得ない世界の真実の様子があります。
春がやって来ると梅や桜が開花しますが、この美しく香りの高い花はどこからどのようにして咲き出すのか。それすら見とどけることもできない。
つまり花の咲きでる根源は「無」というほかはない。
真実の様子(実相)とは「無」というものの「無限の姿」ということと、師は説いています。
桃蹊庵主 合掌
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