1942年6月20日、小雨の降る鎌倉駅。祝いの幟や日の丸の小旗が揺れ、万歳三唱の声が響く喧噪のなか、丸刈りの出征兵士に混ざって家族や地域住民らに見送られた一人の女性―。
下倉田町在住の安藤政江さん(91)は日本赤十字社救護看護婦養成所を卒業後、太平洋戦争に従軍看護婦として出征。43年には熱海にあった伏見宮別邸に住み込み、療養中の大日本帝国海軍・元帥海軍大将だった博恭王(ひろやすおう)殿下を看護した。
相模湾を望む邸宅。東京方面へ飛行する敵機の群れを呆然と眺め、「子どもの頃に見た赤とんぼみたいだった。敵国にはたくさん飛行機があるのだと思った」。
家族と国を守るため
約10カ月間の任務を終えて婦長として赴任した横須賀海軍病院には、病院船から多くの負傷兵が運び込まれていた。多い時には数百人に及び、他の看護婦は「野戦病院よりひどい」ともらすほど。ほぼ睡眠をとらず看病にあたった。
攻撃を受けて船から漏れ出た油に引火し、文字通り火の海と化したなかを懸命に泳いで逃げた兵士達の火傷はひどかった。海面に出る背中の皮膚は一様に焼け落ち、目、鼻、口を残してガーゼで身体をぐるぐる巻きに覆って手当を施した。
「人間は全身の3分の1を火傷すると死亡すると聞いていたけれど、3分の2以上の火傷でも生きていた。気持ちがしっかりしていたのでしょう」。しかし、重い怪我を負いながらも、兵士達は弱音を吐くことなく、「俺よりもあいつを診てやってくれ」と仲間を思いやっていたという。
そんな中、京都出身のある青年が今も印象に残る。「看護でベッドを回っていたら、『ここにいてほしい』と手をグッと握って離してくれなかった。他にたくさんの負傷兵がいて忙しかったけれど、しばらくそのままにしていたら、そのうちフッと力が抜けて。寝てしまったのかと思ったら、亡くなっていた。まだ、だいぶ若い兵隊さんだった」
赤十字の精神「博愛・人道」に則り、同じ病院に入院するアメリカ人の捕虜も手当した。食事も要望に応え、麦を摺りつぶして調理したオートミールを真似たメニューには手を合わせて喜んでいたという。「体格の割に、表情はあどけなくてかわいらしかった。日本人も外国人も、相手国が憎いわけではなく、自分の家族や国を守ることに懸命だったのです」
自決恐れ劇薬保管
日本の敗戦が決まると、「皆に送られて戦争に来たのに、恥ずかしくて生きて帰れない」と多くの看護婦が自決を望んだ。しかし、婦長として「今まで精一杯国に尽くした。今度は女として家庭に戻り、この国を立て直そう」と激励。一方、万が一に備え、12月の解散まで劇薬が保管された金庫の鍵を入浴時も肌身離すことはなかった。
戦後は妻、母として務め、現在は孫6人、ひ孫6人にも恵まれた。「91歳まで生きて悔いはない。いつまでもこの平和が続いてほしい」
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