まもなく戦後76年。タウンニュース高津区版では、7月16日号で紹介した北見方在住の黒川金次さんの戦争体験をつづった冊子「いのちの記憶〜私の戦争体験」(筆録/吉田豊さん=北見方)の本文を掲載します(一部抜粋、編集)。
はじめに
平成17年8月3日開催の北見方町会理事会開会のことばの中で、黒川金次さんは戦後60年ということで戦争体験を語られた。21歳で出征。バシー海峡で輸送船が魚雷を受け轟沈。3100名中わずか407名の生存。次いでセレベス海でまたも魚雷により輸送船は沈没。2日2晩、海中で救助を待った。2000名のうち1200名生存。不死身といえるような体験をされた。機会があったらお話いただきたいと願っていた。平成18年2月16日、ご自宅でお話いただけた。以降数回にわたり、お話を伺った。
一、思い出すのは1、腕時計は身代わりか
この名簿は石川さんという人が連隊本部に残っていたので、作ってくれたのだけど。この人が私の小隊長でね。士官学校出の谷岡さん。私の叔父さんが精工舎から買ってきてくれた腕時計を見たら、「貸してくれ」というんだよ。カバーのかかったやつで。この人は上にいたんだけど助からなかったんだよな。士官学校出らしく、きびきびしていい人だったよ。腕時計のせいか、俺を可愛がってくれたよ。(笑い)
班長さんは浅草の出の人で松井ってね、浅草と北見方と近いので親近感があったのか、黒川、黒川ってかわいがってくれた。就寝の点呼が終わって、たまたま「飯ごう2個持って甲板に出てこい」といわれて、甲板に出ていて助かった。甲板には水が出るところがあって、班長に靴下の洗濯を命じられた。戦友はみな船倉で寝ていた。洗濯を終えても船倉に戻らずそのまま甲板の土嚢の上で寝ていた。何しろ暑くて船倉では寝られたものではない。船は轟沈だから巻き込まれて、沈没した時は気絶かなんかしていたらしく、水を飲んでいなかった。気がついた時は浮き上がっていた。そうでなければ塩水を飲んでいたはずだ。運がよかったよ。
船倉には一番下に馬と4トントラックが積まれていて、その上に兵隊の座っている高さで仕切りが3段に分かれて乗船していた。1坪(3・3平方メートル)に8人という狭さだった。木組みに板を引いただけで、隙間だらけなので胡坐をかいて動くと尻が隙間に挟まったり、食事時に飯ごうの蓋の味噌汁なんかこぼすと、下の兵隊から怒鳴られたりした。(笑い)ほとんど初年兵だった。訓練は船の上ではやらなかった。たくさん物を積んでいる。砲も海を向いていて、魚雷攻撃に備えていた。魚雷は白い泡を出してくるので、昼間は見つけることが出来たが夜は発見が困難だった。
2、入営 甲府へ
話は戻るが、20歳のとき、結核、淋病、梅毒の有無を検査され、21歳で体格検査を受け、いわゆる兵隊検査で、私は甲種合格になり、召集令状ではなく数え21歳になると現役で入営をする。
私の入営は昭和18年12月1日。日の出前のまだ暗い午前5時。白髭神社から溝口駅まで、青年団が「進軍ラッパ」を4丁のラッパを吹奏して送ってくれた。ラッパは二子の吉崎秀五郎さんが先生になって、二子神社の横の土手で教えてくれた。青年団員は練習してくれたが十分でなく、途中で吹奏が止まってしまったりした。
溝口駅から入営者のための臨時列車に乗り込んだのは、北見方、二子、下作、溝口、久地の人たち7〜 8人だった。甲府49連隊へ入隊した。ここに1週間滞在。毎日武田神社まで行軍、足慣らしをした。演習は何もなかった。神奈川、静岡、山梨で編成されていた。行軍など足腰が強かったので、あだ名は「山猿部隊」だった。
3、面会日
面会日は入隊4日目だった。営門で家族を出迎える。おふくろと姉妹2人が来てくれた。連れ立って練兵場へいき、草原に腰を下ろして、出征後の話に花が咲いた。お土産は大好物の牡丹餅だった。貴重な砂糖を使って作ったものだった。うまかった。時間はあっと言う間に過ぎ去り、営門で家族を見送った。これが最期の別れと思ったが、気丈にふるまった。家族は私が入隊まで着てきた衣類を持って帰っていった。気の毒なのは身寄りがなくて、面会に誰も来てくれない人だった。分かっていれば一緒にできたのだが、それぞれの身の上も分からない状況なので、なにも出来なかった。
【次週に続く】
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