まもなく戦後76年。タウンニュース高津区版では、7月16日号で紹介した北見方在住の黒川金次さんの戦争体験をつづった冊子「いのちの記憶〜私の戦争体験」(筆録/吉田豊さん=北見方)の本文を掲載します(一部抜粋、編集)。
再度魚雷 二日二晩海中に
8月15日にマニラを出発。ニューギニヤの一つ手前の鮪漁の有名なハルマヘラ島へ行く途中だった。セレベス海でまたもや潜水艦の魚雷攻撃をうけた。当時私は不寝番を勤めていた。直ぐには沈まないから慌てないようにとの号令があった。「何も持たずに飛び降りろ」と言う指示だったが、泳げないからトイレの板をもって飛び降りた。
「船から離れろ」というので、片手に板を持ち、片手を動かして船から離れた。海中には積んであった孟宗竹が散乱していた。私は孟宗竹に捉まって浮いていた。船は火災を起こしていたが、敵の標的にされるというので、爆雷で自沈させられた。船は船首を海中に船尾を空に突き立てて沈んでいった。二日二晩浮いていた。29日になって駆潜艇1隻に救助された。捕鯨船を改造したもので均等に寝ないと転覆すると言われ、行儀よく寝かされた。約半数が助かった。泳げる人は早く助かりたくて、船をめがけて泳いだ。その人たちは助からなかった。
孟宗竹にしがみついて
マニラには竹が沢山あったからか、竹棒をいっぱい積んでいたおかげで助かったのだ。1本に3人から5人ぐらい捉まっていた。お互いに励ましあった。夜になって寝てしまうと沈んでしまう。昼間のほうが長かった。いつも周りを見回していた。ときたま飛行機が飛んできたが、この知らせで駆潜艇がきてくれたのだろう。寝ていて沈んだ人は浮き上がってこないね。船員が火傷して自動車のタイヤチューブに尻を乗せていたが、寝たために穴からするりと抜けて沈んでしまい浮いてこなかった。寝てはいけないと必死だった。夜の海はあったかで昼間より楽だった。夜には故郷の家庭、両親を思い出した。父のリヤカーの後押し。母親に可愛がってもらったこと、母の実家奥沢の祭りに連れて行ってもらったことなど。
漂流中思い浮かんできた娘さん
大船の農家の離れに下宿して、海軍燃料廠に行っていた時のこと。色男で人気のAさんと、上小田中のBさんの3人だった。当時農家は男手が戦争にとられ、農家は母親と娘さんばかりだった。私たちが下宿した家には娘さんが2人いた。一人は私より年上だった。近所には3人いたから、合計6人いた。秋の稲刈りや、さつま芋の取り入れなど手伝いに行っていた。そのうちある美人の娘のCさんとAさんとが恋仲になった。
戦後Cさんが北見方にAさんを訪ねて来た。ところがAさんは既に叔母の勧めで結婚していた。傷心のCさんは私の家にも来てくれた。あいにく私は留守だったが、おふくろと話をして、帰っていった。
とにかく大船にいた時は、皆よく夕食に招待された。娘さんはほとんど20歳前後だった。私は下宿先の2人の娘と富士登山をしたことがある。ところが妹が5合目で高山病に罹り急に下山することになった。予定より早く帰宅したので、親は安心して「ごくろうさま」と喜んでいたが、私としては残念だった。本当は山小屋へ1泊する予定だったのだ。
Cさんには弟がいたが偶然にも私と入営が同時だった。19歳で志願して、一旦帰宅しての入営だった。まさに奇縁である。私と同じ中隊だった。Bさんは第10中隊で野砲隊だった。出会って4カ月しか経ってないのに、船と一緒に海中に消えた。生きているのは私だけである。
戦後私は大船の下宿先の家へお世話になったお礼の挨拶にいった。息子さんは陸軍軍曹だった。一度は志願で二度目は召集で参戦していた。大船の辺りは農地が狭く、砂利篭などを作っていた。お土産に桃などを持っていったこともある。娘さんは既に結婚していた。私は結婚の約束をしてはいなかったから、当然のことだった。
漂流中は夢のように色々なことをとめどもなく思い出していたのだった。
セレベス島にてメナドでの思い出
救助されたのは、メナド海軍基地だった。29日の夕方だった。体の皮膚は剥げ、顔は真っ黒だった。兵舎に行くまでに町場を通らなければならない。日の暮れるまで浜辺で待った。あまりにもひどい顔をしていたからだ。顔だけではない。竹棒を握っていた手の甲の皮膚もすっかり剥けてしまっていた。こんな様子を原住民に見せるわけにはいかなかったのだ。距離は海岸から5キロぐらいあったかな。
悲劇だったのは落ちていた古い椰子の実を皆で食べて全員ひどい下痢に襲われた。薬もないので、椰子の枝葉を燃やした炭を粉末にして飲んだ。当然ながら便は真っ黒だった。3時間ぐらいしかもたず便所に駆け込む。便所といっても、穴を掘ってそこで用を足す、いわゆるネコ便と呼ばれていたものだ。最後は出るものもなくなった。
そこで整備して山奥の地点に移動した。メナドには1週間ぐらいいたかな。ここの女学生はセーラー服を着ていたな。
入院中に花札
ある時、ぜいぜい息苦しいので診てもらったら気管支炎とていうことで入院したが、この時は天国だったね。民家へ10人ぐらいずつ別れ自炊していた。2週間ぐらいだったかな。下士官も一緒で階級もこだわらず楽しかった。絵の上手なのがいて、葉書を四等分して本物よりやや小さい花札を作ったりした。伍長は赤青二色の鉛筆を持っていて、絵のうまい上等兵が絵を描いた。点数は殻つき南京豆で、10点で殻つき1個、得点すれば南京豆が増える。花札が終わると、豆を全部集めて皆のお茶菓子となった。入院生活は楽しいものだった。往診に来るのは衛生兵だった。
衛兵勤務の最悪の思い出
退院してから任務に復した。このとき悪い思い出があんだよね。十日おきにある衛兵勤務につくのだが、ある時衛兵勤務についていた時だった。夜の勤務だったが、腹の具合が悪く草むらで用を足している時、運悪く週番下士官の軍曹が見回りにきて見つかってしまった。「勤務中何をしているか」と往復ビンタをいただきましたね。これが最悪の思い出だ。たしかに海中に放り出されたときが命にかかわる最悪だったが。こっちが最悪だ。この班長は私ばかりでなく皆から嫌われていたね。帰国して和歌山県の田辺港に上陸したとき仕返しをしたよ。
衛兵以外は訓練をしていたが、訓練と言っても敵がいるわけではないし、たまに空襲があるだけだ。中国にいた時には敵機に対して、地面に仰臥して敵機に向かって射撃をする訓練をしたが、セレベスではこれをやったら集中攻撃を受けて全員やられてしまって以来止めてしまった。もっぱらタコ壷に隠れるだけだったね。このときの敵機は双胴の飛行機で、椰子の木すれすれに飛んできて機銃掃射をする。銃弾が椰子の木に当たって倒れる時凄い音がする。機関砲が幹に当たると実の重さで倒れちゃうね。
【次週に続く】
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