まもなく戦後77年。本紙では、高津区内在住の大橋重(しげ)さん(89)に自身の戦争経験について語ってもらった。
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大橋さんは川崎市内出身。実家は当時幸区にあり、戦火が激しさを増してきた国民学校6年生の頃、4年生の妹とともに母方の親戚宅の千葉県へ疎開した。親元を離れたとはいえ「身内の家だし同年代のいとこもいたから、寂しくはなかった」と大橋さん。農家のため食べ物に困ることもなく、村の学校に通う日々で「辛い目にあったことはない」と振り返る。
自宅は空襲被害に
「千葉にいても、東京の方が真っ赤になっているのが見えた」と空襲を目にした時の記憶をたどる。ある時、母が下の妹2人を連れて疎開先の姉妹に会いに来たことがあった。その帰り道、妹が迷子になり、探すうちに電車を逃して一晩泊まることに。その夜、川崎市内は空襲で被災。母子は奇しくも難を逃れたが、学徒動員で勤労奉仕していた姉が一人で留守番をしており、安否がわからなかった。「母は市内に戻った後、遺体が並べられているところに行って、遺体に被せられたむしろを一人ひとりはがして姉を探したそうです」。幸い姉は近所の人に助け出され、知り合いの憲兵が鶴川まで避難させてくれていたという。家は壊滅的な被害を受け、母と姉たちは「家が燃えた」と疎開先に避難してきた。半年ほど滞在し、家族揃って帰ったという。
残る戦争のあと
父は召集を受け出征。1944年、当時39歳でパプアニューギニアで戦死した。「お骨が帰ってきたけど、入ってなんかない。箱の中に石が入っているだけだった」。戦後、大橋さんは高津区内に嫁ぎ、義理の姉から当時の状況を聞く機会もあった。義理の兄は中国でマラリアにかかり、野戦病院に入ったが帰って来られず、終戦後の12月に亡くなったという。「当時は帰って来られないのも当たり前だった」
嫁ぎ先は今の洗足学園の近くで、戦争当時は軍需工場だった。義理の姉も当時勤労動員で工場で働いており、厚木方面から勤労奉仕で来ていた女学校の生徒が戦後になって訪ねてきたこともあった。「(家には)三角形や四角形の石みたいなものがたくさんあって、何かと思っていたら『飛行機の部品だよ』と教えてくれた。工場で作っていたものを、戦後もらってきたみたい」。敷地内には防空壕も残るなど、戦争のあとはあちこちに残されていたという。
「今は社会情勢が不安定だけど、長く平和が続いてきたのも事実。このまま続いてくれることを願っている」
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