横浜米軍機墜落の記憶(下) 風化させず、語り継ぐ
被害者らの声を代弁し、米軍機墜落当時の様子を後世に語り継ごうとする人がいる。山形県出身の斎藤淑子さん(74)=緑区長津田在住=もその一人だ。
斎藤さんは教員を目指し、山形大学教育学部に入学。「男性と対等に仕事ができると思って」。卒業後、山形の小学校に1年勤め、旧港北区(現都筑区)の折本小学校へ赴任。「結婚相手が川崎の小学校にいてね」。大倉山で新婚生活をスタートさせた。
時代は高度経済成長の真っただ中。「マンモス校では一部の学生が、非行に走ったり、いじめが社会問題になっていた。子どもたちを救うには教師ではなく、社会を変える政治家になるしかない」と斎藤さんは決意。折本小で12年務めた後、教育や福祉、医療などを充実させた神奈川県にしようと1975年に旧緑区から県会へ出馬し当選を果たす。
◇◇◇
1977年9月27日午後1時、県議会開会のベルが鳴った。それは、定例本会議の代表質問の初日だった。
間もなく、議会事務局員がメモ用紙を斎藤さんに手渡した。そこには「緑区に米軍ジェット機が墜落」と記してあった。「何が起きたのか分からなかった」。そっと議場を出て、重傷の被害者が収容された青葉台救急指定病院へ。病院には当時1歳と3歳の子どもらが全身やけどでベッドに横たわっていた。「何とか助かってほしい、生きていてほしい」。斎藤さんの思いもむなしく、二人の子どもは事故発生から1日を待たず、短い人生に終わりを告げた。
◇◇◇
「現場は油と髪の毛が焦げたような、異様な匂いだった」。無人の米軍機は約20t。アスファルトの道路に幅6m、長さ21mの穴をえぐり、止まったという。被害者の椎葉一家は夢だった外国への移住を断たれ、重傷者の林和枝さん(当時26歳)は2人の子を失った。
「墜落の事実を記録に残さなければ」。事故現場を初めて見た時から、斎藤さんの頭の中にある思いだ。墜落から4カ月後、全身やけどの薬浴治療を続ける和枝さんと面会。同じ母親として、手を握り「とにかく頑張ってね」と励ましたこと。民事訴訟を起こした椎葉家に寄り添って支援したこと。政治活動を引退後、「子どもや母親に読んでほしい」と、約7年の歳月をかけて墜落の全貌を書き記した「ウワーッ!飛行機が落ちてくる」を世に出した。「今度は、資料記録などを集めた本を発行したい」
「あの日」から37年。神奈川県内の米軍基地施設数は70年代から半減し、現在は13カ所に。斎藤さんは今も、全国各地で墜落当時の話を語り継いでいる。「風化させてはいけない。事実をしっかりと伝えることで、墜落や平和について一人ひとりが考えるきっかけになれば」。そう願いを込める。
―了
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