高津物語 連載第九五九回 「戦時下の高津」
我が家が立ち退き、府中県道は取り敢えず、久地の大圦樋(おおいりひ)までが開通した。
農業土木技術者平賀栄治氏考案になる「円筒分水」を久地の地に定着させるには、太平洋戦争突入直前のため、大変な困難を要した。
誰にでもはっきりと目に見える形で、公平に水を分けることが出来、水争いを丸く収める仕組みとして活期的な装置が考案された。
『円筒分水』が完成するため【1】平瀬川の水を津田山隧道を貫いて流し【2】新設する新平瀬川堤防に沿って、多摩川に直接流すこと【3】登戸から流れて来る二ヶ領用水を、宿河原から新しく取り入れた用水と合流させ、そのまま、洪水の頻発した久地駅付近を意識的に避けて通り過ぎ、久地大圦樋に限りなく近づく。
「鷹匠橋」を過ぎて、流れは、府中県道をトンネルで抜け「津田山」の崖下の「大圦樋」に出る。
ここは、昔から「二ヶ領用水」が流れていた所で、両岸をコンクリート護岸して、より広く、深くなり、従来に比べて、何倍もの水量に耐えられる様になったものと思われる。
この辺が平賀栄治への援助というか、協力と言おうか、神奈川県土木工事部の戦争直前の工事実績であり、その昔、作家田山花袋(かたい)が『東京の三十年』というエッセイで「久地の大圦樋の辺り」が私は好きだ、と書いていたが、今のようなコンクリート護岸をしても、それでも尚(なお)、好きというか、改めて聞きたいところなのだが・・・。
昔は鬱蒼(うっそう)とした津田山の緑が覆いかぶさるように、大圦樋に下りて来ていた。
本論に戻ろう。という訳で、平賀栄治の仕事は、随分と時間が掛かった筈(はず)であるが、津田山駅前に「日本ヒューム管川崎工場」が出来、平賀栄治を側面から後押ししたから、随分と平賀栄治は、仕事がやりやすかった筈である。
そればかりが、「日本光学川崎工場」が、レンズ研磨のため平賀の供給する水を待ちに待ち、待ち切れずに川崎市が、平間浄水場から、南武線沿いに供水管を敷設、これが今日の「南武沿線道路」である。言い換えれば、戦中の諸施策が、今日に生き続けているという事実である。
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