第2次世界大戦終結から8月15日で70年を迎える。節目の年ということもあり、巷間、改めて同戦を振り返る機会が増えているが、港北区内では何が起こっていたのか。区内の歴史・文化研究の主要機関である大倉精神文化研究所の平井誠二氏に話を聞いた。
平井研究部長によると、第2次世界大戦中の港北区内には海軍施設が点在していたことが分かっている。
師岡町の山の南側斜面には、1943年頃に横穴が掘られ、洞窟の中に海軍省の図書庫が置かれた。入口には図書閲覧所も設置され、この建物は戦後の52年まで大綱小学校の師岡分教場として使用されていた。一般的に知られているのが慶応大学日吉キャンパスの地下壕。44年7月から堀削が開始され、連合艦隊司令部などが移転、任務を遂行していた。さらに大倉精神文化研究所本館は、44年9月から45年8月まで海軍気象部が海霧の研究と当時の敵国の米国とソ連の気象電文の暗号解読をしていた。
平井部長は「当研究所は高台にあり、電波が受信しやすかった。気象情報は戦時中重要機密であり、私たちの調査によると、軍人、技術者など130人以上がここで任務に就いていた」とし、海軍が区内に移動してきた理由を「首都東京への攻撃を予想し、当時郊外だった港北を安全と考えたのではないか」と予想している。
空襲での被害
空襲に関しては、横浜の空襲を記録する会による「伝えたい 街が燃えた日々を」に詳しい。44年12月25日に樽・南綱島から始まり、翌年7月28日の太尾(現大倉山)まで断続的に続き、死傷者も出ている。特に被害が大きかったのが5月29日の横浜大空襲時。当時太尾には300戸余の住宅があったが、そのうち70戸余が焼失したとの記録がある(同研究所調)。
縁故疎開も盛ん
縁故疎開も盛んに行われた。農村部だった区内には都心部から縁故疎開の児童が多数訪れ、大綱小学校では44年7月で1千人の児童数が同年秋ごろには2千人に増え、分教場などを導入。同年8月になると集団疎開が始まり、神奈川区の斎藤分国民学校の165人の児童が、小机の本法寺、鳥山の三会寺に疎開。この中には女優の草笛光子さんもいたという。一方で日吉台国民学校(現・日吉台小学校)の3〜6年生は高田の興禅寺に70人、下田の真福寺に100人集団疎開している。その後、海軍省人事局が同校へ移転しており、それが疎開理由でないかとの推測がされている。
戦後米軍に接収されたのが慶大日吉キャンパスなどだが、意外なことに岸根公園の一部も朝鮮戦争を機に50年から5年間接収されていた。同公園の一部はさらに57年から66年まで自衛隊が高射砲陣地として使用していた。平井研究部長は「岸根公園を見てわかる通り全てが『戦後70年』ではない。戦争を知るには体験者の話を聞くこと、資料を読み正確に全体を把握することが大切」と力説した。
同研究所では9月26日まで資料展「大倉山の海軍気象部」を実施している。
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