北海道南部の内浦湾に面する漁師町、茅部郡南茅部町(現・函館市)――。川名好子さん(79歳・平戸町在住)は、この町で代々続く網元の家に生まれた。
太平洋戦争が勃発したのは、7歳の誕生日を迎えて5日目のこと。それでも開戦からしばらくは、北の大地には普段と変わらぬ時間が流れていた。
だが、日に日に戦況は悪化。のどかな片田舎の生活に戦争が暗い影を落とし、出漁が困難となった父の義治さんは廃線となった線路を撤去する事業を始め、単身赴任で現場に出かけていった。
そんなある日、一家の大黒柱が不在のなか、町に空襲警報が鳴り響く。母・マサさん、幼い弟、妹と小高い丘の壁面に掘った防空壕へ避難するも、この日の空襲は激しく、より遠くへ逃げるよう指示が飛ぶ。「父が留守の間は私が家を守る」。にわかに強い使命感が沸き、腰を抜かした物静かな性格のマサさんを「ここにいたら死んでしまう」と叱咤して、山の奥まで手を引き歩いた。
だが、安心したのも束の間、義治さんがかわいがっていた愛犬のジョンを置き去りにしてきたことに気付く。遠くに聞こえる鳴き声。川名さんは躊躇なく一人で引き返した。そんな姿をあざ笑うかのように、背後から低空飛行で近づき機銃掃射を浴びせる米国のグラマン戦闘機。「戦争なんかで死んでたまるか。絶対に生き抜いてやる」。バリバリバリと轟音が響き、砂煙が舞う山道をジョンと無我夢中で駆け抜けた――。
我にかえり来た道を振り返ると、そこに残されていた無数の弾痕。生還は奇跡に思えた。「意識の持ちようで人間は幸せにも不幸せにもなる」。それ以来、信念として抱き続けている。義治さんもまた、南茅部町へ引き上げるために乗っていた汽車でグラマンの襲撃を受けていた。乗客らは近くの草むらに身を隠したが、そこにいたヤギは飛び跳ねて敵の標的になるため、やむを得ず皆で殺したという。罪のない動物の命も戦争の犠牲となった。
昼夜を問わず、いつ発令されるか分からない空襲警報に備え、毎晩洋服を着たまま床に入った戦時中。まもなく迎えた終戦に、ゆっくり風呂につかれること、焼き場の脇を通って防空壕へ行く必要がなくなったことに喜びを感じた。
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今なお尊敬してやまない義治さんは”人は平等”という考えを貫き、「皆で生き延びよう」と蓄えた食糧を周囲に配っていたことを思い出す。「話しあい、許しあえるのが人間というもの。戦争は本当に愚かです」
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