1945年5月29日。関東学院(南区三春台)の中学部1年生だった月野和陽右さん(83)=俣野町在住=が空襲警報のサイレンを聞いたのは、登校後間もなくのことだった。
昼間の発令は珍しかったものの、度重なる出来事にもはや慣れっこ。「いつものこと」と驚きもしなかったが、この日は様子が違った。横浜市に向けて数百もの敵機が飛来してくるという情報が入ったのだ。
軍事教練の指導者として学校に配置されていた将校の指示で、生徒らは敷地内の防空壕ではなく鉄筋コンクリート造の校舎の地下へ避難。にわかに緊迫感が走るなかでも、気持ちは穏やかだった。「神風が吹くから日本は絶対負けない。学校で教えられてきたことを信じ切っていた」
だが、まもなくして豆がザラザラとまかれるような音が外に響き始めた。上級生に教えられたその正体は焼夷弾。近隣住民の避難場所だった校舎には、水に浸したかいまき(袖付きの寝具)をかぶった人たちが熱風とともに次々と逃げ込んできた――。
約一時間後、飛行機の気配がなくなったので外へ出ると、そこには火傷を負った大勢の人がもだえ苦しみ、医務室の看護師たちが駆け回っていた。生き地獄と化したなか、「木製だから燃えるかもしれない」と防火水槽からバケツリレーで教室の机に夢中で水をかけ、倉庫に焼け残っていた配給米を食べた。「焦げ臭くて仕方なかったけれど、それ以上に腹が減っていた」
正午前、まだ火がくすぶる焼け野原を数えきれないほどの死体をまたぎながら家路についた。木材や衣類、汲み取りトイレ、あらゆるものが燃え、辺り一面に立ち込める不快な臭い。さまざまな形の火ぶくれした焼死体。だが、そんな凄惨な光景にも「何も感じなかった。人間としての感情が入り込む余地など1%もなかった。今思えばあれが戦争の心理だった」。
白昼の大空襲で、推定8000人から1万人の命が失われた。
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