とつか歴史探訪 ■〜旧東海道・戸塚宿を訪ねる〜第62話 〜源頼朝が進軍した鎌倉道中道〜
鎌倉道とは、文治5年(1189)に源頼朝の軍勢が鎌倉から奥州(今の東北地方)へ進撃した道筋に始まり、後には周辺の鎌倉幕府の御家人たちが鎌倉へ行き来した道です。この奥州合戦は、奥州の大勢力、平泉の藤原氏を征伐して、東国を統一する総仕上げでした。鎌倉から三軍に分かれ、北陸道軍は関東地方西側の山間部寄りを通り(上道)日本海沿いに進み、東海道軍は東京湾寄りから北上し(下道)太平洋沿いを進み、頼朝を大将とする中央軍は関東平野を通り抜け宇都宮を経て(中道)白河関に進みました。
この鎌倉道は、新たに街道を整備せずに、以前からあった道を繋ぎ合わせて使い、山間部では尾根筋に近い村境確認の小道を利用することが多かったといわれます。鎌倉道の道筋は、資料が少ないため、土地の言い伝えや古い寺社の由緒来歴などを基にいろいろ検討されています。
中道については、鎌倉から小菅ヶ谷村(栄区)を経て、戸塚区に入り舞岡村と柏尾村の東側村境近くを進み、柏尾川を渡って、秋葉村と名瀬村の東側村境近くを北上して、武相国境を越え二俣川村(旭区)あたりまでの道筋が、有力視されています。その先多摩川を何処で渡り、広い関東平野の何処を通って宇都宮まで進んだのかは、種々の意見があり、まだ一致はみられておりません。
挿絵は頼朝の京都上洛の一情景ですが、同じ勇将畠山重忠を先導に総大将源頼朝が率いる三千騎の騎馬武者とその従者たちなどの軍列が、戸塚区内を進軍する様子をご想像ください。
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